言葉の襞にまで分け入って、他者の言葉に耳を傾ける/小川公代著『世界文学をケアで読み解く』阿部賢一さんによる書評を公開
多様な他者の声に耳を傾ける
「ケア」という言葉が様々な場で口にされるようになって久しい。介護サービスを利用している人であればケアマネージャーと頻繁に会うだろうし、そうではなくてもヤングケアラーという言葉は耳にするだろう。一般的に「ケア」は介護や福祉の文脈で用いられているが、近年、社会学、倫理学でもその射程を広げている。著作『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)などを通して、ケアと文学研究を連動させる実践をしてきたのが小川公代さんだ。対象を世界文学に広げてその可能性を探求したのが、本書『世界文学をケアで読み解く』である。
「ケア」は日常的に用いられる表現であるがゆえに固定観念がつきまとっている。通常は、健常者が弱者に対して、金銭的な対価を前提に行う行為と認識されているかもしれない。だが本書での「ケア」は介護や福祉の文脈に限定されない。心理学者キャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』を踏まえて、著者は「〈ケアの倫理〉の基盤は、他者から自己を分離することではなく、関係性を結ぶこと」と述べる。人が介護する場面を思い浮かべる時、子供が親をケアする、女性が男性をケアするといった自立した個人間の関係性で捉えがちであるが、そうではなく、他者も考慮しつつ、自己も考慮する互恵性という観点が肝要だとする。出発点はギリガンによるものだが、著者はさらに議論を進め、文学にその可能性を見出そうとする。というのも、文学や映画といった文化は個人と社会が変容するための「靱帯」として機能しているからだ。
まず第一章で取りあげられるのが、村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」。主人公の俳優、家福悠介は妻を病気で亡くし、喪失感を抱えた人物として描かれる。著者は同作を「ケアを必要としている男が近代西洋的な『強い自己』を背負うあまり、その苦悩を他人と(……)なかなか分かち合えない」物語として措定する。ケアがフェミニズムの枠組みで議論される場合、対象は女性に限定され、男性は排除される傾向があった。だが著者は男の苦悩にも光を当てる。〈多孔的な自己〉という概念が度々参照されるように、著者は多様な方向性に開かれた自己という観念を柔軟に用いて、ケアは女性にまつわるものだという私たちの固定観念を揺さぶり、性差を超えたケアの可能性を探求する。
そのため、一見マッチョな映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』さえも、氏の分析の対象となる。荒野の要塞を取り仕切る首領イモータン・ジョーは独裁者のような振る舞いをしているが、彼は同時に「自らの弱さを押し隠し強さだけを可視化させる現代人の象徴」であると指摘する。つまり、同作は今日の競争社会を極限化した作品とも言えるのだ。
それゆえ、本書では新自由主義的な今日の社会にも言及がなされるが、あくまでも議論は文学作品を通して展開される。なぜなら「強者として生きている人間にはなかなか見えてこないケア実践が確固としてあり、文学には、それを補完する想像力の世界が広がっている」からだ。
文学ならではの可能性とは、現実の感覚では捉え難いものを描くことだ。そのため、本書ではSFにも一章が割かれている。映画『インターステラー』は気象災害で地球での居住が困難となり、宇宙に移住可能な惑星を探す物語だが、そこでは生の可能性をめぐって多様な想像力が駆使されるだけではなく、人工知能という他者への眼差しについても言及がなされる。
人工知能以上に遠い他者とは死者である。それは科学的な言説では扱い難いものであり、文学作品だからこそ接することができるものである。第五章ではトニ・モリスン、平野啓一郎、石牟礼道子の作品が論じられる。存在していないかのような弱者の存在がいつくしみとともに描かれている点が指摘され、個々の作品の魅力とともに、想像力の繊細な様相が描き出される。
このように、本書は「ケア」という観点を設定しながらも、様々な他者に思いを馳せるという文学の基本的な機能を見事に浮かび上がらせており、芸術表現の可能性を感じさせるものとなっている。それが可能となったのは、著者が小説や映画を綿密に読解し、言葉の襞にまで分け入って、他者の言葉に耳を傾けているからだ。だがそこで著者の営みは終わることはない。言葉にならなかった人々の想いを(自身の傷を含めて)掬い上げ、批評という形にしたのだ。それによって、弱さを口にしてもいいという生き方の実践ともなっている。
本書で用いられる意味での「ケア」が社会に広く浸透すれば、他者との繋がりも増え、私たちの生もより豊かなものとなるだろう。