本屋大賞ノミネートの超話題作『君のクイズ』はどうやって生まれたのか? 著者・小川哲さんが杉江松恋さんとの対談で明かす
杉江松恋さん(以下:杉江):僕はYouTube(杉江松恋チャンネル「ほんとなぞ」)で千街晶之さんと一緒に、小説誌に載った短編を読んでオススメの作品を紹介するという番組(『千街・杉江の「短いのが好き」』)を配信しているのですが、「短編だ!」と言っているのに千街さんが『小説トリッパー』に載った中編小説の『君のクイズ』を挙げてきたんです。で、読んでみたらまぁ、面白いのなんのとびっくりして。Twitterにも書いたんですが、今年は『地図と拳』で直木賞を獲るだけじゃなくて『君のクイズ』で芥川賞も狙うつもりかと。
杉江:皆さんがまず聞きたいのは、「なぜ、クイズなのか?」だと思うのですが。
小川哲さん(以下、小川):僕はスポーツが好きで、サッカーとか野球をよく観るんです。スポーツを小説にすると、身体の動きとか美しさみたいなものは損なわれてしまいます。スポーツに限らず音楽もですが、小説に変換するという行為は、何に対してもできるわけではないんですね。小説に向く変換の仕方と、向かない変換の仕方があるんです。
杉江:五感のうち視覚に拠るものは比較的楽でしょうけど、聴覚や味覚の場合は大変でしょうね。
■信者でもファンでもない、という感覚
小川:話が少し飛びますが、『ドライブ・マイ・カー』という村上春樹原作の映画がありますね。この映画が公開された後、僕が濱口竜介監督に仕事でインタビューさせてもらったことがありました。
これは僕の好みの問題でもあるのですが、村上春樹原作の映画の中には、「さほど面白くない」ものが多いような気がしています。どうして面白くないかっていうと、これは僕の解釈ですが基本的に監督が村上春樹という作家をリスペクトし過ぎているわけです。村上春樹作品の、小説の中で面白かったポイントや描写、セリフとかを、そのまま映画に輸入してしまう。「いかに村上春樹の作品を映画の中で再現するか、実現するか」というところが1つポイントになっているんです。
もちろん、例外もあります。映画ではないんですが「海辺のカフカ」の舞台ってすごく面白いんですよ。世界的にも評価が高い。演出家の蜷川幸雄が、村上春樹作品を演劇にちゃんと翻訳しているからです。翻訳の作業が必要なんですね。濱口監督は、村上春樹をリスペクトしていて映画化したのではなく、小説『ドライブ・マイ・カー』を読んだら、「これ、映画としていけるな」って思って映画化しているんです。
杉江:村上春樹信者じゃない、わけですね。
小川:信者じゃないし、熱心なファンでもない。濱口監督ご本人も、そういう話をしていました。でもちゃんと映画になっている。それは『ドライブ・マイ・カー』という小説が持っているテキストの奥側にあるマグマみたいなものに1回突っ込んで、それを映画っていうメディアに翻訳して、作品になっているから面白いわけですよ。だから、良くも悪くも、原作をリスペクトしていないというか、原作の根っこの部分にある「作品が持つ本質」みたいなものを映画として撮っている。だから、映画として素晴らしいものになっているんです。
で、話がようやく戻るんですけど、スポーツは、小説に「翻訳」するのが極めて難しいんです。
杉江:とても難しいと思います。
小川:『江夏の21球』(山際敦司著)という、野球をうまく文章に翻訳した素晴らしい短編ノンフィクションがあります。江夏豊が1球を投げるごとに試合状況が進んでいって、「バッターがその時に何を考えていたか」「江夏が何を考えていたか」というのを都度止めて、見せる。
杉江:ストップモーションの技巧ですね。
小川:僕は、「小説の強さ」って、止められることだと思うんです。だから『君のクイズ』は基本的に、『江夏の21球』なんですよね。クイズというメディアが持つ競技性はとても文字で表現しやすい。問いも文章だし、答えも文章だし。
杉江:なるほど。
小川:1問ごとにストップをかける。それをやれば面白いんじゃないかって思った。僕はクイズについてそんなに知らないし、強い興味も持ってはいなかった。けれども、『江夏の21球』の究極版として書き得るスポーツはクイズなんじゃないかっていう思いが、直感としてあったんです。
■作家の直感としてあった「クイズ本来の魅力」
杉江:野球は攻める側と守る側があって、その両側の視点を使えますね。そして、投球ごとに間があるし、止められるんですね。
小川:野球の一番の魅力は、とてつもない速さのストレートだったりコーナーに決まる変化球だったりするし、それをバッターがホームランにしたり進塁打を打ったりすること。やはり身体の部分に依存するところが多い。でも『江夏の21球』は、別のやり方で野球の魅力を引き出した。基本的には、野球本来の魅力ではないですよね。けれどそれがクイズなら、より「クイズ本来の魅力」に近いものができるんじゃないかなっていうのは作家の直感としてあった。
杉江:『君のクイズ』の162ページに、人間の持つ脳の働きを「身体性を帯びた脳の使い方」として描いている箇所があります。スポーツ選手は自身の身体を熟知しているので、それぞれの部位を道具のように駆使して動くことができます。それと同じで、自分の脳がどういう動きをするかを主人公が判断しながらクイズの正答を導き出す。あそこにたいへん感心しました。今、お話を伺っていて、スポーツからその描写についての考えが始まっているということに納得しました。
小川:こういう脳の動きはね、小説を書いているときでも起こるんですよ。
杉江:面白い、そこ聞きたいですね。
■物語の進みたい方向に抗わずに書いた
小川:物語ってすごく重力があって……強烈にある方向へ進めようとしてくる時というのが多々あるんです。自分でも意識しない間に、重力にひっぱられて進んでいるってことがよくあって。後から読み直してみてその物語の構造をやっと自分で理解する、みたいな。人間の内部にインプットされている、物語の進みたがっている方向みたいなものを後から感じるんです。
大抵、そういう先走る時は小説としてはダメです。でも『君のクイズ』は、僕は抗わずに、この話が進みたがっている方向に沿って書いたんです。他の長い小説を書くときは、小説がどこかの方向に進みたがると1回眺める。「本当にそれでいいのか?」みたいなね。自分の中で1回引き受けて、その上で物語の進む方向に従ったり、あるいは従わなかったりするんですけれど(笑い)。『君のクイズ』は、ラストだけですね、自分で色々と考えたのは。
杉江:重力によって光が曲がるようなものですね。短編の書き方と長編の書き方が違うというのも興味深いです。
小川:僕は、書いてしまったものに対してずっと質問し続けるって感じです。「お前どこまで行けるか?」「お前は何かできるか?」みたいな。で「こう行きます」って言われたら、「じゃあ、お前行くか」と(笑い)。自分が書いた原稿と常に語り、聞きながら進めている感じですね。で、遠くに行けるんじゃないかって進んで行ったら全然道がなかったとか、袋小路だったりとかするけど(笑い)。長編を書くときは、そんなイメージです。
杉江:『君のクイズ』は長めの中編ですが、この本はそうではない書き方をした、と。
小川:この本は1回潜ったら、そのまま一息で最後まで完走したって感じです。最初のシチュエーションの「ゼロ文字押し(一文字も問題が読まれぬまま回答ボタンを押す)」も、どういう風に解かれるかっていうのは、僕自身がわかっていなくて。だから三島と一緒に僕もずっと考えていました。
杉江:ロジックは、事前にちゃんと考えてはいない。でも、書きながらどこかでそのロジックに到達するということですね。クイズの試合をしながら三島ないし本庄のどちらかが答えることによってクイズが生成される、クエスチョンとアンサーが生成されるプロセスみたいなものがあるというのも、どこかで発見したんですね?
小川:はい、発見しましたね。若干ネタバレになっちゃうかもしれないんで、聞きたくない人は、耳を塞いでいただいて!(笑い)。
実は、書いていてずっと嫌な感じがあったんです。それは「クイズの生放送なんて絶対しないよな」ってこと。自分がディレクターだったら、事故るかもしれないし、放送の終了時間も計算できないし、展開も予想できないし、撮れ高もわからない。だから書いていて中盤ぐらいで気持ちが悪くなった。でもこれをなんとかしなきゃいけないっていう気持ちと、謎(ゼロ文字押し)をなんとかしなきゃいけないっていう気持ちが出会って、手を繋いだ。
■読者と一緒に答えを模索しながら小説を書く
杉江:推理小説って一般的には結末から逆算して書いてく小説というイメージがありますが、一方で作者が読者と一緒に答えを模索していく感じの書き方をする人もいるとは思うんです。「俺はプロット書かない」って豪語する大御所のミステリー作家もいます。「書いていればどっかで到達する」「自分が答えがわかって書いていたら、つまんないじゃん」と。
小川さんに今日「ロジックは、いつわかって書いた?」「逆算して書いたの?」と伺いたかったのですが、答えは「そうではなくて、書きながら作者が読者の視点と同じになって発見していく面白さがあった」と。そのことは、小説にも表れていますよね。
小川:『君のクイズ』を書いている時に僕が一番知りたかったのは、「本庄絆が何を考えていたのか」っていうことです。だから逆算して初めにそこが設定されてしまった瞬間に、僕の楽しみがなくなってしまうんです。だからどこかで答えが見つかってくれないかなって思いながら書いていたし、いけるんじゃないかという、ふんわりとした感覚はあった。
今回書いていて僕が一番気持ちがよかったのは「小説が持っている一番の弱点が、小説を支える柱になった」ということです。自分自身が「生放送でクイズ番組なんて絶対やらないよな」って思っていたことが、実は柱になった。ずっと考え続けていたことが「ゼロ文字押し」でなんとかなるじゃないか、それが結びついて僕の中での構造上の美しさになりました。