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「私は書くのをやめていたでしょう」


この世界は、わたしが分かるまで何度も姿形を変えて言って来るようです。

ふたたび世界がわたしにメッセージしてきました。

今年のノーベル文学賞を受賞されたノルウェーの劇作家、ヨン・フォッセさん。

戯曲が中心で、イプセンの再来と評される方なんだそうです。

受賞の会見で、「好きか・嫌いか」ではなく、自分が「出来るか・出来ないか」で表現していってね、といいました。

でなければ、わたしの声はこの世界に届くことは無いのでした。



1.「私は書くのをやめていたでしょう」

デビュー作「Red, Black」を出版した時、悪い評価をいっぱい受けたそうです。

もしそれらの意見に耳を傾けていたら、「私は書くのをやめていたでしょう」という。

で、フォッセさんは、人生から学んだ最高のアドバイスは何かと聞かれ、こう言いました。

「それ以来、他人の意見ではなく、自分自身の声に耳を傾けることを自身のルールとしています」と。

かなり絶望した。そして、世界と繋がりたいと思う自分自身を分析したでしょう。


続いて、こう言いました。

「誰かに求められるものや、あったらいいなと夢想するものではなく、

自分が持っているものに固執し、自分自身の内なる声やビジョンに耳を傾け、文章をどのようにしたいかを追究してください」と。


”固執”なんて、わたしがさらに独りよがりに成りそうです。

いいや、フォッセさんは「自分が持っているものに固執」すると言った。

そこは手放してはなりませんと。

他人のいい加減な誉め言葉や批評、自分の好き嫌いで夢想するものではなく、世界に貢献できる武器をはっきりさせよと言っていた。

狭い、たった1点なら、たしかに誰でも何かの武器が見つかるのです。

そこを頼りに深め研ぎ澄ませて行く。

どんな時もその1点ものの手段で世界につながってゆく。

だから、その先には、やっぱりあなたしか出来ない(あなたにはそこしか出来ない)世界が立ち上がって行く。

だから、あなたは外の評価ではなく、自分を探求してくださいと言ったのです。

それは、彼の苦いにがい経験から紡がれたもの。

彼は、へこたれずになぜ続けられたんだろう?



2.やりたいことではなく自分ができること

フォッセさんは、悪い意見に耳を貸さないというだけではなく、良い意見についても同様だと続けました。

「ここ数年、私の文章は好評で、賞などもたくさん受賞していますが、それが自分の文章に影響を与えないようにしています」と。

失望もしないということは、有頂天にもならないということですね。

他者評価を捨て去った彼は、さらに続けてこういった。

「他人の意見に左右されず、やりたいことではなく自分ができること、書く必要があると感じていることにこだわり、

何度中断しても出発点に戻ってみることが、執筆を続けられたポイント」ですと。


自分ができること、できること・・。

「自分ができること」を何から気が付くのでしょう?


自分が好きじゃなくとも、周囲が求めて来るもの。それが「自分が出来ることです」と林修さんはかつて言いました。

だから、林さんは「誰かに求められるもの」を非常に真剣に受け止め、チャレンジした。

他者に求められたものは、たいがい自分では好きではないんだけど、自分は苦もなく出来たし、そういう仕事や執筆は世界に受け入れられましたと。

あなたにその技量があるから、周囲はあなたに「してみませんか」とか「したらいいんじゃない」というのですね。

あなたがしたいことじゃない。

100万部以上著書が売れた林さん。

フォッセさんに比べると、「誰かに求められるもの」を否定していません。

たぶん、フォッセさんは、評論家が言ってくる”いい加減な”コメントなんか相手にするなと言いたかったでしょうか。



3.わたしの支持率

いきなり、卑近な私事ですみません。

わたしの支持率は10%程度です。(ページビューに対するイイネとかスキの比率です)

せっかくこのブログに10人訪問いただいても(読みたいと言う意欲があって来てくれたのに)、9人はお気に召さなかったのです。

理由は分かりません。仕方無いです。

でも、ひとりも支持者がいないというのでもない、という点がすごいなとも思うのです。

絶対多数の9割がふんと「否定」したにも関わらず、まぁ良いんじゃないというに近い判定を下した人もいたのです。(一部、お付き合いもありますが)


フォッセさんは、自分を否定する評をどうやって乗り越えたんだろうかと思う。

たしかに、一定比率の人たちが自分の作品を好まないというのは自然でしょう。

わたしは、ペパーミント味はどうしても好きになれない。

わたしは酸っぱいものが大嫌いなのに、女子たちは大喜び。

村上春樹さんのエッセイは大好きなのに、小説は入れない・・。

フォッセさんの作品の概要を読みましたが、何言ってるのかわたしには分かりませんでした。(あんまり読みたい作風では無かった)

人は”好みが分かれる”ということを達観しただけだよと、フォッセさんは言う?

そう言われても、でも釈然としません。



4.じぶんが出来ることを理解している

内から射して来るかすかな光を、彼は「自分自身の声」として聴き、「文章をどのようにしたいかを追究し」た。

追求する際、彼は気を付けたのです。

「やりたいことではなく、自分ができること、書く必要があると感じていることにこだわ」った。

こんなふうにペパーミント味にしたいなという「好き・嫌い」では書かなかったと言っています。

そうではなくて、自分が優れている(できる)技法や構成ですすめていったと。

あまり好みではなくとも、手持ちにある優れた技量で最高の表現をと追求した。(探求自体はとても楽しいもの)


たとえば、わたしは散文(エッセイ)が好きで、このブログを書いています。

一方、X(Twitter)で140文字つぶやく方が支持率はうんと高いのです。

わたしはナラティブが”好き”なのです。Xは片手間です。

世界に貢献したいのなら、あるいは芸術を極めるなら、あきらかに「好き・嫌い」ではなく、自分が「できる・できない」の軸で表現すべきなのです。

ブログの支持率10%にとどまっている理由が分からないと書きましたが、ほんとは分かっています。

わたしは「できる・できない」で書いてないのです。「好き・嫌い」で書いている。

その結果が支持率に現れているだけでしょう。

もし世界に貢献したいのなら、わたしがより秀でた表現形式で問うべきなのです。

いいえ、わたしは散文が好きなのです。



5.2つのフィルター

「私」と「世界」の間に、フィルターが入り込みます。

①オレ様を証明したいフィルター

わたしのような人たちは、発信により評価され敬われたいでしょう。自分も一人前の男だと、すごいヤツだと証明したい、、みたいな。(あからさま過ぎますか)

こういうタイプの「私」は、自己本位という前提にいますから自分を客観視できにくい。

「世界」にアクセスする時、「好き」というしたいことに重心が寄り易いのです。

②孤独だフィルター

他者が苦しんでいる、たとえば、そういうシーンに対してアンテナ立つ。そして自分がひどく孤独であった。

そういう人たちは、発信により、他者を励ましたい、同じ仲間として。

こういう「私」は仲間本位になりますから、自分を見て一番貢献できそうな道を見つけて行くでしょう。

自分が効率的に貢献「できること」に集中することになります。


どちらにも、探求して楽しむというエネルギーが重なり得るので、どちらも探索を続けます。

が、受け取るのは「私」ではなく、「世界」の方です。

「世界」は、「私」がどんなフィルターで書いているかを瞬間に嗅ぎ分ける。

②を読み手がウェルカムとするのは、発信者の根っこが仲間にアンカーされているからです。

ということで、①は根無し草となるでしょう。


「私」と「世界」の間に、フィルターが入り込みます。

①と②に大雑把に分類しましたが、どう考えてもわたしは①にいます。(②の成分も多少はあるのですが)

わたしが「好き・嫌い」で考えてしまうのは、原因ではなく結果だということです。

他者評価を諦められないほどに、自己に注意が向いていたのです。

ということで、低い支持率はとうぜんなのです。


フォッセさんのメッセージはそこをじっくり味わうことをわたしに求めて来ました。

今のきみは賛同者は少ないし、日の目を見ないかもしれないけれど、

自分はそう信じて続けて来たんだとフォッセさんはいっているように聞こえた。

ただね、ブログが好きだと言うきみの想いは尊重するにしても、せめて今の1/5に短い方がいいよとアドバイスされるでしょう。


P.S.

「諦める」の語源は、明らかに知らしめる。

わたしたちの先祖たちは、とても重要な意味をこの言葉に託しました。

そうであることをいったん理解してしまったら、もうあなたは以前を執着できなくなると言うのです。

だいじょうぶ、手放しなさいと。

まぁ、長々と書いてしまった言い訳なのですが。

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