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『わたしを離さないで』|運命から逃げない人々

※前回と同じでこれは書評ではないので、『わたしを離さないで』を読んだかどうかは、この記事を読むことに影響しません。ただしネタバレはあります。


『わたしを離さないで』はカズオ・イシグロの最も有名な作品の一つ。
作品は、臓器提供用のクローン人間として生まれたキャシーによって語られる。

作中のクローン人間は感情を持ち、遊び、恋愛し、怒ったり泣いたりもするが、その実は家畜と同じである。臓器を抜き取られるために生まれ、順番が来次第、臓器を抜き取られて死亡する。それが彼らの「使命」である。

彼らはなぜ逃げないのか?

作中で、彼らの子供時代は寄宿学校で監視下に置かれている。しかし成人後は一般社会に放たれ、車などの交通手段を持ち、飲食店で食事をしたりもする。だから一見すると、臓器提供の順番が回ってくる前にいくらでも逃亡できそうだ。

それなのに作中のクローン人間たちは逃げない。逃げずに日常生活を送る。順番が来れば死んでいく。
それが読者を困惑させる。映像化されてからは映画の観客やドラマの視聴者を困惑させる。

彼らはなぜ逃げないのか?

それが、『わたしを離さないで』の読者が当然に抱く疑問である。

まず前提として、彼らは死を恐れる感情を持っている。
それが最もよく示されている場面は、主人公のキャシーとトミーが、
「本当に愛し合っているカップルは提供を延期される」
という噂を信じて、自分たちの愛を証明しようと保護官を訪ねる場面である。
結局はこの提供延期への試みは失敗に終わり、トミーは怒りの咆哮を上げる。

また、彼らは抵抗する気持ちも持っている。
主人公の親友ルースは、クローン人間に課された掟を破ってまでも、クローンのコピー元を探そうとするし、トミーは寄宿学校時代にたびたび癇癪を起こす。

しかし最終的には逃亡することなく、粛々と使命=臓器提供に向かう。
そして使命を完遂し死亡する。おそらく主人公のキャシーもその道を辿った。

使命完遂=死だと理解していながら、さらにその死を恐れながら、なぜ彼らは逃げないのか?
その疑問への回答は、たくさんの読者が提示している。

主流なのは「クローン人間は、遺伝子や洗脳教育によって、逃げられないように作られている」というものだ。

それは、そこそこ正解だとは思う。(何様かいって感じだが。)
まあ、おそらくそういうことだ。
私は、その回答を基盤に置いた上で、このように考える。

『わたしを離さないで』の作中において、クローン人間たちが「臓器提供から逃れよう」と試みることは、この世界において我々が「死から逃れよう」と試みることと同じ

我々は死を恐れる。
しかし、人間がいずれ必ず死ぬことを知っていて、それを受け入れている。
もちろん抵抗はする。
病気が見つかれば治療をするし、事件事故に巻き込まれまいと対策する。
私は若いうちに余命宣告を受けたら、怒り狂い激しく苦しむだろう。
もっと生きられるはずなのに、と思うだろう。
しかし最終的な寿命から逃れようとするだろうか?
たとえば不老不死の薬を発明しようと頑張る人がどれだけいるだろうか?
結局、我々は死を恐れながらも、死を受け入れているのだ。
それが運命だから。
そう決まっているから。

だから『わたしを離さないで』のクローン人間たちは、この世界の我々なんじゃないだろうか。
それなりに寿命を伸ばしたい。死は怖い。でも、受け入れる。
それが、この世界の人間の姿だ。

彼らの命は大切か?

「命は大切だ」という言説は幼児の頃からよく聞かされるが、我々は実際のところ、命は大切ではないということをよく知っている

「人間の命は地球より重い」というが、まず地球より重いのは「人間の命」であって「命」ではない。
しかし人間ではない命だって、大事なものは大事である。
たとえば私は飼っているペットの命がどんな財産よりも大切である。
蝉の鳴き声を聞いて、素敵な一日だな、と思う。
カタツムリを見て、かわいいな、と思う。
しかしゴキブリが出てくれば殺す。
牛を食べる。豚も食べる。

しかしゴキブリであっても、たとえば大切な人間が大切に飼っているゴキブリであれば殺さないし、牛や豚でもペットならば食べない。
犬猫の殺処分もやめてほしいと思う。それは私は犬猫が好きだからである。
つまり大切なのは命ではなく愛なのだ。

多くの人間は愛し愛されているので、
また、愛されない人間がいるとしても、
彼らと愛する人間が、どんな形で立場を交換するか分からないので、
人間は人権を発明し、互いの命を守り合うことを約束した。

人権が天賦のものではなく、人間が生み出したルールであることは、誰もが内心ではわかっていることだ。
人権は全ての人間に与えられるが、人間にしか与えられない。動物には与えられないし、虫や草木にも与えられない。
しかし、人間以外の命が全て、いかなる場合も軽んじられるわけではない。
動物愛護主義者やヴィーガンによって、動物の命は守られるべきものとして扱われる。「不殺生」を戒律とするジャイナ教徒は、虫が鼻に入って死ぬことを防ぐためにマスクまでしている。
私も、たとえば蟻やカメムシをうっかり死なせてしまうのは仕方がないが、殺すのにはちょっと抵抗があったりする。
『わたしに離さないで』におけるクローン人間も同じだ。
クローン人間を殺してはいけないと主張する人もいる。クローン人間の権利を守ろうとする人もいる。多くの人は、クローン人間に対し罪悪感を抱いている。
しかし、結局は人間の利益のために、人権というルールの範囲外に置かれている。だから人間が臓器提供によって生き延びるために、クローン人間から臓器を抜き取ることは許されている。
我々が生きるために、牛や豚を殺して食べるのと同じだ。
命を軽んじるわけではないが、命を大切にしているわけでもない。
全ては愛によってつけられた、優先順位である。

作中で人間はクローン人間に感謝している。
我々が「牛さん豚さんありがとう」と感謝するのと同じである。
我々は感謝はするが、牛さん豚さんが檻から逃亡し、運命から脱出しようとすることは決して許さない。
クローン人間にどれだけ感謝し、どれだけ同情しても、自分や身近な人が臓器提供を必要する段になって、「クローン人間に申し訳ないので要りません。死にます」という人は、それほど多くないだろう。

我々は彼らに対し、
「なぜ逃げないのか?」
という疑問を抱く一方で、
「我々は逃げることを許さない」
こともまた知っている。

その状況になれば、我々はクローン人間の命を踏み台にして生き延びることを選択し、さらにクローン人間の側もその運命を受け入れる。
これは非常に恐ろしいことだと、直感的には間違いなくそう思うはずだが、しかし現実世界はすでに同じようにできている。
具体的な事例を提示することはしないが、それを私たちは薄々わかっている。私たちがほかの人間を踏み台にして今日も生きていることを。自分が踏み台にされていると思う人もいるだろう。

我々は運命に多少は逆らってみせても、最終的には受け入れる。
搾取することも搾取されることも受け入れる。
殺すことも殺されることも受け入れる。

だからといってこの世界に希望がないわけではないだろう。
キャシーやトミーの人生が全て暗かったわけではなく、そこには幸せな一瞬がたくさんあった。我々の人生も、いつか必ず死ぬからといって、どうしようもない力に抑圧されているからといって、全て絶望に塗りたくられるわけではない。

そんなことを結論づけてから、カズオ・イシグロさんがノーベル賞を受賞した理由を読んでみた。
壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた

なるほど!
つまりそういうことですわ!

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