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ひとり旅ばかりだった私が大切なひとと諏訪に行く話

行きたいところがあるわけじゃなかった。
でも、どっか行きたいなって気持ちはどっか行きたいなって思っているうちに実行しないと、どこへも行けなかった自分ばかりが積み重なって腰が重くなるから、そろそろどっか行こうかなって思ってた。
そんな時に「週末、どっか行っちゃう?」って恋人が言って、弾みに乗ったわたしたちはすぐさま行き先を決めねばならなくなる。決めねばならない、という言い方をしたけれど、これはとても楽しい大人の贅沢。だって旅は行き先を決めるところからもう旅なのだから。

同じ景色をふたりで眺めるってことの寂しさもあるんじゃないかって思ってた

ひとがあんまり旅行地として挙げないようなところにしよう、と決めてわたしの検索バーは地方の田舎ばかりが占めていく。旅はできるだけ何もないところがいい、といつも思う。行きたい場所を事前に決めずに、その土地で、さらりとふらりと立ち寄るくらいがちょうどいい。だって本当に「何もない」場所なんてどこにもない。

ずっと東京にいるとやっぱり疲れてしまうけど、好きなひとと二人なら行きたいとこもやりたいこともきっとあとから見つかるし、見つからなくてもべつによかった。

わたしはかつて、遠くへ行こうとしてどこまで行っても遠くへ来たとは思えなかった日を知っている。
どんな旅でもどんなときでも美しいものは美しくて悲しいまでに感動できることも知っている。
とめどなく溢れてくる感情から逃げてばかりの旅だったあの日が、今ではやけに遠かった。

満たされている日常をわざわざ抜け出して、好きなひとと旅に行くというのはちょっと特別なことで、でもそれって、どれだけ2人でいても結局はひとりであることと変わらないという一種の寂しさとも対峙することになるのではないかと、不安でもあった。

そもそもひとは、同じものなど見ていない。そしてそのことはわたしの景色を2倍にしてくれる。

諏訪に着いたとき、小さくてローカルな駅舎も、ちまっとした個人商店が並んでいる商店街も、踏切の向こうに見える空がだだっ広いことも、(初めて踏む土地のはずなのに)懐かしくて仕方がなかった。

空がだだっ広い踏切

立石公園に行こう、とわたしは言った。
君の名はのモデルになった諏訪湖が見渡せる公園があるのだという。

そこから先、小高い丘の上へと続く道は民家、民家、公園、民家、畑、自販機……と子どものころの記憶が呼び起こされるような素朴さで、夏休みの原風景みたいなものが広がっていた。
諏訪湖を囲むようにつづら折りの道が続いており、わたしたちは言葉少なにせっせとのぼった。

急斜面から見下ろす諏訪湖の気持ちよさ

派手な観光地ではないところへ行こうと言ったのに、立石公園には人が溢れるようにいた。
なんでも、今週は彗星が降るのが見えるらしく、君の名はの聖地で見たい人が集まっていたらしい。
彗星が降ることも、君の名はの聖地だと言うことも、来てから知ったことだった。

わたしたちは公園の端で諏訪湖に背を向けるようにして座った。立石公園に訪れる人たちがみんな楽しそうで、それを眺めているのが楽しかったから。写真を撮るためだろうか、小さなブーケを持ってきていたり、恋人同士で写真を撮り合ったりしている人たちを眺めていた。
「みんな楽しそうだね」と言う私に、隣に座っていた恋人が「あの人の乗ってる自転車、シェアサイクリングかな?」と言った。
観光地でも東京にいるときと変わらない会話が少し嬉しくて、わたしは「そうかも」と笑った。

それから夕方になる頃に私たちは混み合う立石公園を出る。きっと彗星を見るために、これから夜にかけて人が増えていくのだろう。

諏訪湖を見下ろす立石公園


わたしたちは夕ご飯を食べて、すっかり日が落ちた夜に諏訪湖の周りを歩いた。
諏訪湖に映る街の光のまばたきを眺めていると、恋人が言う。
「旅先の匂いがするね」

わたしは時折、たとえぎゅっと相手の手を握っても、鎖骨に顔を埋めるように抱きしめられても、まだ足りないもっと埋まらない溝を埋めてほしい、と思うことがある。
それは愛情というよりも、もっと根源的な、自分の存在の境界線を曖昧にしてしまいたくなるような孤独によるさびしさのせいだった。
ひとりでいるときには自分の輪郭がぼやけていくさびしさがあり、ふたりでいるときには自分の輪郭がはっきりしてしまうさびしさがある。

でも、と思う。
わたしとあなたが違うひとりの人間だということが、最近、たまにすごく嬉しい。
ぜんぜん違うものを見て、ぜんぜん違う感想を持って、でも手を繋いで歩いていることがわたしの世界を明るくする。
鼻先を掠める秋の風を感じながらわたしは思った、ほんとだ、旅先の匂いがするって。

翌日、わたしたちは諏訪大社へと向かった。

逃げ上手の若君でも出てくる、お馴染みの場所

四社めぐりをしたかったわけだけれど、地図に疎いわたしは諏訪大社の四社はそれぞれ歩くにはかなり離れていることを知る。
それでも歩いて回れない距離ではなかったから本当ならそうしたかったけれど、帰りの電車の時間に間に合わなくなってしまうのでタクシーを利用していくことにした。

諏訪頼重の供養塔。ひっそりと陽の当たる場所に。

個人的に、供養塔を見るのが好きだ。
一枚写真を撮らせてください、と心の中でお願いして手を合わせ、ぱちりとおさめる。
供養塔には色がある。味がある。明るい雰囲気もあれば暗い雰囲気もあり、からっとしていればじめっとしているものもある。
たとえば心に残っているものだと、源範頼の供養塔は風通しのいい明るい丘の上にあった。
頼重の供養塔も素朴で明るい場所だった、そのことがなんだか嬉しかった。

秋宮の後ろを流れる美しい川

思えば諏訪湖の周りは水路が多かった。
透き通った冷たい水が流れる街並みで、風通しもよく、追っていく先にはいつも諏訪四社が待っていた。

恋人は山が好きだという、わたしは水が好きだ。海でも川でもいい。水の流れる場所が好きだ。
わたしの大好きな泉鏡花の小説にも、多く水が出てくる。山間部に流れる川。谷間。
泉鏡花は村を囲むように流れる川を、母親の胎内にあふれる羊水にみなした。外と内を切り離すものでありながら、わたしたちを守っているもの。
水に触れると水に還っていけるような気がする。そのことにわたしは少し安心する。

タケヤのみそソフトクリーム。旅先とかサービスエリアにしかなさそうな、けったいな味のソフトクリームに出会うとすごくうれしい。

わたしは旅先でいろいろと普段は食べられなさそうなご飯を食べることが好きで、この日もみそ味のソフトクリームを食べた。
何かを食べようとしたときに恋人も一緒に同じものを食べてくれるのがものすごく嬉しくて、そしてそんな恋人を少し困らせたくて、わたしはあれ食べたいこれ食べたいをいつもよりも多く繰り返してしまう。

食事だけは、ちょっと、同じものを美味しいねって分かち合いたい。できれば。いやでもぜんぜん、違うものを食べる楽しさもある。けどそのときに一口ちょうだい、をやりたくなってしまうからやっぱり同じものを少し共有したい。

そしてそれをわかってくれているから、このひとはいつもできるだけ一緒に食べてくれる。あったかいね、と言ったらあったかいねと。美味しいねと言ったら美味しいねと返してくれるやさしさで。

ひとりじゃないっていうのは、分け合うことができるってことなのかも。東京に向かう特急電車の中でそんなことを思って、ひとり旅とは違う旅の、そしてそのあたたかさのことを抱きしめて眠った。

読んでくださりありがとうございます。
ハロウィンも終わり、もうすっかり寒くなってしまいましたね。どうかみなさん無理せず。
また、更新します。

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