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傷つけられる間合いに入るということが恋人だと思っていた
喧嘩というものを、このかたうまく出来たことがない。うまい喧嘩というものがあるのかどうかわからないけれど、世間では「喧嘩するほど仲がいい」とも言う。その「喧嘩」は何を指しているのだろう。
できれば仲良くしていたい。笑っていたい。心地よくありたい。そう思っていても、その狭間で時折衝突はうまれる。大好きな相手でも。むしろ、だからこそ。きっと喧嘩をした回数を数えれば、いちばん多いのが家族、にばんめが恋人、さんばんめが友人、そしてその他大勢とは喧嘩なんてほとんどしない。
喧嘩をするから仲がいいのか、仲がいい親密な関係だから喧嘩が生まれてしまうのか。
喧嘩別れになった恋人も、かつていた。恋人とは、相手を言葉で殺せる距離にいることだ、とその時に思った。その他大勢には見せない柔らかい心を開け渡してしまっているぶん、ことばの刃は強くふかく刺さる。相手がいちばん傷つくであろう言葉を投げたり、投げられたりしたとき、相手を傷つけられる間合いに入ることが親密さなのだとおもった。
それらすべてを否定をすることは今もできない。恋人とは傷つけ合える間合いに入ることだとおもう。相手が何に傷つき、何に心を動かすのか知ること。それと同時に、傷つくかもしれなくても柔らかい部分を少し預けること。けれど、その間合いだからこそ、傷つけないという意志と覚悟が関係性を強固にするのだとも最近は信じている。
喧嘩は傷つけあうことではない。それは当たり前のようでいて、意外と実行されない。衝突する意見を交換しあうコミュニケーションのひとつでしかない。そして私たちはだれしも衝突したいわけではない。終わらせるためのものでもない。わかっているはずなのに、誰もがよくそれを忘れてしまうのだ。
コミュニケーションは重ねていくもの。生活はコミュニケーションを重ねた先に続くもの。そして生活のなかで関係性は変化する。その関係性に心を預ける。
だからやっぱり、傷つけ合える間合い、なんかと言ってはいけないのだ。たとえ否定できずそうだったとしても、今までについた傷跡を埋めていくようなあたたかさや、隙間を縫う清らかな水のようなやさしさや、嫌なことを忘れてしまうような朗らかさを積み重ねる関係性と呼びたい。傷つけ合える間合いでもそういうものを築きあげていきたいんだよ、わたしたちの意志と覚悟で。
そんな相手に、預けた心が、時折修復されて返ってくる。今までの傷が癒えるような時間をふたりで過ごしたから。いつのまにかもう、大丈夫だったんだと気づく。
あなたがもし、わたしを傷つけるために言葉を研ぎ澄ませたならば、あなたの言葉でわたしを殺せるけれど。きっとあなたはそうしない。
わたしたちはその間合いで、生活をする。
すこやかな 生活の中で 薄れてく
痛みありきの 月夜のあかるさ
また更新します。
三寒四温といいますが、春までがまだ寒いですね。あたたかくして、おだやかに明るく、過ごしていきましょうね。