◆生々流転 〜しそ味噌に見る伯母の面影〜
毎年夏になると、庭に植えた大葉で味噌を巻いて揚げ焼きした何らかの料理をつくる。
調べてみたところ、東北地方の郷土料理らしいのだが【しそ味噌】だとか【しそ巻き】だとか【大葉味噌】だとか、様々な呼び名で出てくるので、定まった呼称は特にないのかも知れない。
わたしは生まれも育ちも北海道だが、青森らへんにルーツを持つと思われる母方にも、福島にルーツを持つ父方にもこの料理は伝わっていて、幼い頃から食卓にのぼることがしばしばあった。
子どもだったわたしはそれほどこの料理を好まないまま大人になったが、農家に嫁いだ昨今になって夫が熱望するため、仕方なく一昨年あたりから自作する流れが出来上がってしまった。
しかも作り始めてみて思い出したことだが、そういえば亡父も、随分とこの食べ物が好きだったのである。
わたしが二十代の前半頃、母は突然家出をしてしまった。
母に男が居ることは知っていたが、猛者だった父から逃げるためとは言え、そんな思い切った行動に出るとは思わなかったので、大層驚いた記憶がある。
昭和の頑固親父を絵に描いたような性分で、幼い頃から政治活動に傾倒していた父親(わたしから見れば祖父)のおかげで食うや食わずの苦労をしてきた父は、体躯も筋骨隆々、それでいて頭もそこそこに切れる親分肌。
対して、豪農の長女に生まれて花よ蝶よと育てられ、嫁いだ時には米の研ぎ方も知らなかったという些か頭お花畑の母は、娘のわたしたちから見てもアンバランスな夫婦で、父からの圧政に耐えかねた母は、わたしたちが中学生くらいのうちから浮気を繰り返し、最終的には逃亡してしまった。
わたしたちにとっては驚きはあったものの、どこかで「とうとうやっちまったか」感のある想定の範囲内の出来事ではあったけれど、父にとっては青天の霹靂だったのに違いない。
それまでの見る影もなく落ち込んで、狼狽えてしまった。
結局、四方八方手を尽くして母が住み込みの温泉宿に身を寄せていることが解り、一族郎党で話し合いの末、母の残していた莫大な借金のほとんどを父と、父と暮らすことに決めたわたしが支払うことになり、正式に離婚が成立したのだが、あの頃の苦労の中に、この食べ物の面影がある。
父には、6人の兄弟がいた。
兄が3人、姉が2人、妹が1人。
男を作って出ていった不義理な嫁のことで落ち込む弟を見かねて、それから父の姉たちがよくご飯を差し入れてくれるようになったのだが、夏になると必ず、父の大好物であったこの料理が紛れ込むようになったのだ。
特に、独身だった一番上の姉の刺さりこみ方は、当初娘のわたしからすると、かなり気色の悪いものだった。
四十過ぎまで独身だった今なら解らないでもないけれど、その伯母の口癖は『老後の面倒さえ見てくれればいいから』だった。
例えば何かの料理を作ってくれた時に『伯母さん、いつもありがとう』と言うと、『何も何もいいのよ〜!その代わり、老後の面倒はアサちゃんに頼むわね!』と言った具合に。
冗談じゃねえ。
そう、いつも思っていた。
母が逃げてしまった今となっては父親の老後でさえわたし一人の肩にかかっているのに。
何で父の姉の老後までわたしが背負い込まなければならないのか。
その言葉はいつもわたしに呪いのような禍々しさを感じさせ、どんどん伯母が苦手になった。
それでも母の残した借金を、冬には仕事のなくなる土木作業員の父と、近所のホームセンターのバイトだったわたしの2人で返済するのは骨が折れたから、伯母の差し入れが有難かったことは否定できない。
何しろ、給料日前でどうしても食べるものがない時は、父が道端で謎の草を取ってきて、それをおひたしや天ぷらにして食べていた。
本来なら捨てるような鮭を拾ってきては冷凍しておいて、それを少しずつ解凍しながら食べていた時期もある。
だから、本当に本当に伯母の差し入れは涙が出るほど有り難かったのだけれど。
あれは父が事故で死ぬどれくらい前だったか。
亡くなった人を悪く言うのは些か気が引けるのだが、伯母は本当にデリカシーがなく空気が読めず、いつも余計な一言を言っては兄弟の誰かしらとケンカしているような人だったので、ある日とうとう父をも怒らせてしまった。確か、父が信頼する誰かの悪口を他に言いふらしていたのだったと思う。
で、仲違いしたまま、父は事故で死んでしまった。
実の姉だから、葬式には来た。
しかし、葬式の場で伯母は「弟が死んだ今より、友だちが死んだ時の方が悲しかった」なとど他の兄妹に嘯き、しまいには父とわたしが溺愛していた愛犬を父の遺体にけしかけ「ほら、お前も一緒にあの世についていけ」と言い放ったので、激怒したわたしと妹に「2度とうちに顔見せるんじゃねえ」と追い出され、あとは死ぬまでついぞ交流がなかった。
福祉系の会社で働いている今にして思えば、多分伯母は何らかの何らかを患っていたのであろうと思う。
まぁ、些か前置きが長くなったけれど、とにかくその伯母が、夏になると、この【しそ味噌】だか【しそ巻き】だかを、父のために大量に作ってきてくれていたのを思い出すのである。
やってみて解ったことだが、これはめっっちゃくちゃ手間のかかる料理なのだ。
それこそ何でもコスパ重視のこの時代に、とても自作するべき食べ物とは思えないほどに。
まず中に入れるためのナッツ類を乾煎りする。
それから、味噌や砂糖や唐辛子、すりごま、小麦粉をねりねりして一晩寝かせる。
そして、1枚1枚洗って水気を拭き取った大葉に、ほんの少しずつ味噌を乗せ、ひとつひとつ丁寧に手巻きし、楊枝に3つくらいずつ刺す。
それを、多めの大豆油でパリッと揚げ焼きにする。
30個くらいの串を作るためにはおおよそ150個の巻きをつくる。それだけで毎度2時間はかかる代物なのだ。
一昨年あたりから、クーラーもなかった我が家で玉のような汗を掻きながら、夫のためにとこいつを巻き巻き…巻き巻き…とするたび、あの頃の伯母を思い出す。
年の離れた父の姉だったから、父が死んだ時にはもう70近くにもなっていたのだろうか。
あんな性分だから…とは皆言っていたけれど、生涯を独身で通した。
若い頃は洋裁の学校に通っていて、オーダメイドの洋服を随分と受注していたらしい。
そういえば、わたしが就職した時も、少し古めかしくて恥ずかしかったけれど、伯母がスーツを仕立ててくれたんだったよなあ。
偏屈で、変わり者で、余計なことばかり言う伯母。
最期は、唯一の味方だったすぐ下の妹とも大喧嘩して絶縁したそうだ。
それから数年後、あまりに姿を見かけないからと心配したわたしの従兄弟が伯母を訪ね、痴呆と末期の癌を患ってやせ細った伯母と再会したらしい。
その頃には手の施しようもなく、間もなく亡くなったのだ、という話はだいぶ遅れて従兄弟から聞いた。
伯母のことは、普段はまるで思い出さないが、このしそ巻きの時だけ、思い出す。
こんなに手間のかかるコスパ最悪の、それでいて美味しい料理を、伯母はクーラーもない真夏の一人きりの部屋の中、どんな気持ちで作っていたのだろう。
老後の面倒さえ見てくれればいいから。
この台詞は、後で解ったことだが従兄弟たちほとんどに満遍なく向けられていたものらしい。
思い出すたびに物悲しさを感じるけれど、どうにも人は生きたようにしか死ねないものなのかもしれないな…などと生意気に思ったりもする。
そう言えば、今年の正月に懇意にさせて頂いている野生の霊媒師のようなお友だちが泊まりに来た時、まったく思い出しもしなかった伯母が夢に出てきたことがあった。
その時はあまりにも意味が解らず首を捻ってぶつぶつ言っていたのだが、そのことを宴会の席上で零したところ、即座にそのお友だち、夫、他の友人たちに「そんなの、おかあさん(野生の霊媒師友人の呼称)にご供養してもらいたいから出てきたに決まってるじゃん!」とツッコまれてしまった。
気づいていないのはわたしだけだったのだ。
今日、また1年ぶりにこの料理を作りながら伯母を思い出したので、ふと思い立って記事にしてみた。
振り返ってみれば、伯母の老後の面倒は見ずに済んだけれど、結局野生の霊媒師のお友だちがご供養を引き受けてくれたので、老後ではなく死後の面倒を少しだけ引き受ける形になってしまったことに思わず笑っちゃったよね。
まったく最後の最期まで大変な伯母だったけれど、このしそ巻きを作ってくれた手間ひまと、打算混じりの心遣いは本物だったに違いないのだ。
こんな大変な料理を、あの頃はありがとうね、おばちゃん。
どうか、安らかに。
合掌。