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怖がり過ぎる子

怖がりすぎる子って、私の娘の話です。


 感覚的な混乱の多い赤ちゃんでした。
普通の母親が、ようやく「感覚統合」という言葉を知ったのが娘が3歳頃だったと思います。
療育園の母親教室で知りました。
その時に、「私の知りたかった知識はこれだ!」と思って、しばらく夢中で調べて勉強しました。
療育園の母親教室、先生に借りた感覚統合の本、そしてネットでも「こんな感覚があって」「こんな場面で困る子どもがいます」「こんな困った行動になります」という情報がほとんどでした。

母親は何ができるの?
知識を得てからもそれはずっと、答えが分からない事でした。
自発的な動きが少なく、とにかく固まる反応は、育児本どころか感覚統合の本に当てはまる行動までも達していないし、参考にして自分で考えるしかなかったんです。

生後7カ月で小児のリハビリを受けるために、整形の先生の診察を受けました。肢体不自由児、感覚統合に問題のある子どもばかり診ている先生から、「放っておくと、この子は何もしなくなるよ」とストレートな言葉が投げられました。
その言葉に、ショックというよりやっと分かってくれる人・場所に出会えたと、かえって気が楽になったのです。そう思った私は、その頃、娘の状態を相談すればするほど虐待を疑われるという悲しい状況に、人に期待することを諦めかけていました。
知識を得てからの私の見解ですが、娘は視覚、触覚、前庭覚、固有受容覚の4つも問題で、その時は理学療法士の先生も半分なすすべがないくらいでした。
状況を察して娘のとる反応は、狸寝入りで精一杯拒否していました。訓練時間の半分は、母と先生のおしゃべりの時間で、それでもいろいろなお子さんの話を聞いて、どんな感じ方があってもおかしくないんだと思えました。

生後すぐから、娘が片目だけで見る時と、たまに目を見開いたギョッとした表情になるのが、妙に心に引っかかっていました。
視覚に過敏だった娘は、明るい窓の方に目を向けず反対ばかりに顔を向けました。日光浴に窓際に寝かせると、風に揺れるカーテンに怯えていました。抱っこして、ベランダに出るとドラキュラが日光で溶けるようなリアクションで反り返って手から転げ落ちそうになるのに、何とか対応するのが精一杯でした。

娘の反応に、常に「なんで?」「なんで?」と疑問ばかりが募って、娘に掛ける言葉を見失っていました。

触覚に過敏だった娘は、布団の中で体を動かすと掛け布団が体について動くのを怖がって、少しも動けず困っている様子でした。
掛け布団が怖いなんて、その時は考えが及ばず、布団の中で固まっていてただリラックスできてない事だけは分かりました。自分に得体のしれないものが覆いかぶさっているとでも思っていたのか身体に力の入ったまま、なかなか寝付けずにいました。
そんな調子で、添い寝もただ緊張を与える行為でしか無くて、すぐに諦めました。

抱っこも落ち着かないし、哺乳力も弱かったので少しずつしか飲めなくてミルクの時間は、「お願いもう少し」「もう少し」とうれしい時間というより半分苦痛を与えているようでした。

母親の私が様子を見に近寄る足音でも緊張しているのに気付いて、「近くにいない方がいい?」「必要なら呼んでね」何を怖がっていて、どうしたら怖がらず過ごせるのか悩み続けていました。

触られたくないことにも気付くと、おむつ替えもいかに早く済ませて解放してあげるかが、娘のためで「きれいして気持ち良くしようね」なんてコミュニケーションの言葉を掛ける余裕はなくなってました。

この頃ずっと、自分が頼ってもらえない「値打ちの無い母親」で、頼ってもらうのにどうしていいか分からなくて悩んでいました。
怖い、緊張の対象に母親自身が入っているなんて、ショックだし屈辱でした。自信を持って、「母親です!」って気持ちになれない日々がとてもつらかった。
そして娘にとって頼れる人は、やっぱり私しかいないんだからと自分を励ましていました。

ふとした時に、私が抱っこしている時にだけ泣いてることに気付きました。お母さんに抱っこって=嬉しいだけじゃないんだ 「イヤ」を伝える人として選んでいたんです。少なくとも、娘にとって私が理解してくれる人になりつつあることを感じました。
嫌なことが多すぎて何がしてほしいのか分からず困っていましたが、それでも触覚過敏の娘が、他の人に抱っこされると泣かずにカッチっと体を固めてしまうのを見て、「泣く」って私にだけだ、「泣く」って頼ってくれているってことだと思えました。
ただ、泣いて訴えてくれていることに母親のプライドが救われた気持ちでした。

子どもの虐待のニュースで「泣いてうるさかった」って言葉を聞くと、なんてことをと思ってしまいます。「頼ってくれてるってことだよ。必要とされてるんだよ。あなたに分かって欲しいんだよ。選んで訴えてるんだよ」と、伝えたくなるんです。

日常生活で、ただ乳母車で散歩するだけでも、視覚、聴覚、前庭覚に本人が好まずとも感覚は入っています。
娘の混乱する感覚が分かると、各場面での感覚の分析ばかリしていました。
「今は、視覚と前庭覚」「今は、視覚と、聴覚と前庭覚。視覚情報が賑やかで多すぎてダメだ」等、分析に忙しくて娘のキャパを考えて「この状況は撤退しかありえない」娘の落ち着く場所が、人気のないうす暗い駅のホームで、お買い物に出かけても「ダメだ撤退。目の焦点がどこにも合ってない」と、到着してすぐに予定変更することもありました。
私の話から娘を理解してくれている夫と二人で潔く予定を変更して帰宅していました。

こんな調子で、夫が理解いてくれていたのは救いでしたが、舅姑からは「神経質に育てるから子どもが神経質」と言われても病名が判明してなくては説明できず、「子どもが神経質だから親が神経質なだけなのに」と心でつぶやいてました。

触覚が過敏だったので、娘に触れる時は「背中に触るよ」と伝えてから触れる必要がある時期もあったりしたのですが、信頼関係が生まれてくると私が触れても大丈夫になりました。

とっても苦労したけど、その時々は理解するのに必死で上手に接し方が分からず気の利いた言葉も掛けてあげられませんでした。今なら分かるあの時、母親の私にできることはこれくらいかなと分かることを書かせていただきます。

 嫌な感覚を分析するまでは良かったのですが、その嫌な感覚をそのまま受け止めてあげれば良かったと思っています。「あなたはそうなのね」と思えていたら、もっと早く気持ちが通じ合えてたかもと思います。
安心できるように「私がいて守っているよ。不安でも大丈夫で、そんなに怖がる必要ないよ」ということを伝え続けることだけで十分なのかもしれません。
そこから先は、本人が受け入れてくれるのを待つ以外ないのです。
時間(数年)はかかるかもしれませんが、少しずつ同じ状況でも怖がる様子が落ち着いて、いろいろな場面を受け入れられるようになるはずです。


娘を理解して頼ってもらえるまでに苦労したけど、今、気持ちが分かりあえていることがすごく幸せです。


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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