参加型開発理論の盲点、スケールの問題
開発民俗学私論(その2) B078 <2007年5月13日(日)>
過去のブログ記事を転載しておきます。
参加型開発理論の盲点、スケールの問題
わたしも業界人のひとりとして、参加型開発とかミレニアムディベロップメントゴールなどに無関心ではいられない。ここでは、参加型開発とODA、NGOとの議論で何がかみ合わないかについて私見を述べたい。
スケールの問題
わたしは、開発の専門家として関連する人には、出来る限りあって話をしようとしているが、NGOの方と話していて、特に違和感を感じることがある。
ずばりスケールの問題である。スケールとは、事業規模、具体的には対象とする地域の面積、受益者の数、技術的なアプローチの仕方などをいう。特に、わたしはODAの仕事をしている開発コンサルタント会社に籍をおいていることもあり、どうしてもわたし(たち)が考えるアプローチは、国家政策から次第に管区、州、市町村という風に、トップダウンで‘政策’の整合性を検証しつつ、ボトムアップの計画を立案しようと考える。
ここで、参加型開発について一言いいたいのが、現地の人々のリアリティを重視しようとする方針そのものには何の批難すべき点はない。しかし、ボトムアップだけでよいのかというのが、そもそも論としてある。確かに、英国のロバートチェンバース氏ら欧米の開発コンサルタント(研究者)が主に得意としている(ブラック)アフリカや中南米、西南アジアの一部の国、地域では、国家組織と従来の歴史的な住民組織の二重構造が、国家政策と実際の住民の求めているものとの乖離という問題を起こしてきたもの事実であろう。もっといえば(欧米の)国際開発機関の現地政府や、その中の開発対象地域へのプロジェクトの押付がいかに間違っていたかの方が問題なのであるが、彼らのそれなりに自己批判しているようなので、それはさておく。
しかし、問題は2点ある。
国民国家が対象である政府開発援助
1つには、近代資本主義社会が前提としているのは「国民国家(ネーション)」であり、腐っても国家は国家なのである。つまりどれほど住民と乖離があろうと当該国家の政府官僚組織を巻き込まない(政府)開発援助はありえない。だから市民組織(NGO,NPO)の出番だと短絡的に考えてもらっても困る。つまり、欧米のいうところの国民国家という考えにお付き合いするために、世界中のほとんど全ての国・地域が国家として体裁を少なくとも対外的には取っており、ご丁寧にも近代国家とみなされるだけの法律的な枠組みを既に持っているのである。「近代国家=法治国家」であるという図式について、ここでは述べるつもりはないが、不安な向きはご自分で確認いただきたい。
つまり、少なくとも当該国には建前としてでも、住民の行動を縛り、規範となるべき法律が存在する。要するに、NGOやNPOの善意だけで、その法律的な枠組みを壊すことはできないということである。住民の声を拾うことはいい。だが、国家としての枠組みを知らずに勝手に行動することは、原則、許されるべきではないと思う。特に、学校や保健医療、特に人道的な援助についてのNGO・NPOの活動は、対外的に写真写りもいいし、受けもよいであろうが、少なくとも地方政府のもっているルールや能力との兼ね合い、もっといえば村落組織も含めて、政府当局との関係性を全く断ったうえでの援助活動は、結局、単なる外部者の自己満足にすぎないと思う。
ボトムアップの物理的な限界と国家のグランドデザイン
二つ目としては、ボトムアップで下から問題を把握しようとするとどうしても地理的な広がりを書いた近視眼的な見方になりがちであること。現実にも多種多様である地域に対してきめ細かいサービス(援助も含む)を提供しようと考えることは理にかなっているし、それは地元も望んでいることであろう。しかしながら、そのような見方(しか)できないNGOやNPOが国家政策に文句をつけるのはいかがなものか。
つまり国には国としてのグランドデザインをする権限があり、それは決して地域住民の利益を損ねることを目的としているのではなく、建前としても国全体の福祉を考えているはずなのである。
プロジェクトの規模の問題を考えるために必要な考え方
たとえ話をすると、10円のプロジェクトをしている者が、100万円のプロジェクトをしている者を正確に評価できるかということなのである。
現在、日本のODAのソフト化、草の根化が進行中であるが、わたしはちょっと待てといいたい。
例えば、①10円×1,000箇所=10,000円 と②1,000円×10箇所=10,000年、③10,000円×1箇所=10,000円 は同じモノなのかということを問いたいのである。
これをモノに変えてみると、①10円のアメ玉を、ただで1000人に配りました。一方、②1,000円のアメを作る機械を10台購入しました。③の例は、ちょっと思い浮かばないのでやめておくが、当然、予算規模によって、できることもやるべきことも違ってくるのであり、それ以前に考え方(アプローチ)の仕方そのものが違ってしかるべきなのである。
具体名は挙げられないが、実際の話として、こんな例がある。A国においてダム開発による先住民の生活地域が水没する再定住の問題があるとする。分かりやすくするために100家族、500人の先住民が開発の被害(影響)を蒙るとしよう。一方、この開発により、ダムの下流部の灌漑システムの50,000家族(250,000人)がダムの貯水力により乾期の灌漑農業の便益を得られるとする。
先に述べたように国民国家であるA国は、市町村のレベルから住民(具体的には市町村議会)から開発の承認を得ているものとしよう。確かに、先住民ということで、この政治的なプロセスにおいて代表を送っているわけでもないとして、まったく知らないところで開発話が決まってしまったとしよう。
しかし、もし仮に、このような場面に(国際)NGO・NPOが関わりあうとしたら、まず事実関係の調査、そして、国としての意思決定プロセスや事業主体に対してのアプローチをまずすべきであろう。しかしながら、そのNGO・NPOが先住民の500人のこと(利益)だけを考えて、他の250,000人にも及ぶ受益者がいるということと、民主的に手続きが完了していることを隠して、いきなり、国家主導の押し付け開発だとか民間の利益誘導だと、国際世論に訴えかけようとするとしたら、どういうことが起こるであろうか。
極論すれば、これは子供のけんかに文部大臣を呼びつけて批難するのに等しい暴挙なのである。
全体像を見たうえでの評価を
私は、数のことを問題にしているのではない。しかしながら、全体像をみた上での評価があってしかるべきで、500人の先住民の権利(の方)が重要だから、その他の国民の権利はどうでもよいという考え方は、まったく納得できない。人権という視点では、先住民も、そうでない国民も等しく同等の配慮があってしかるべきなのである。
このケースにおいても、いろいろな解決方法があってしかるべきであろう。ここで、読者諸賢にお願いしたいのは、必ず利害関係の検証には、双方の言い分とその裏をとること、一方的な(一見、正しくみえる正義の味方面をした)NGOやNPOのいうことばかりを鵜呑みにするなということである。これは、メディアリテラシーそのものの問題でもあるが、今のような高度情報化社会では、表にでるまでの情報操作の問題に、もっと注意を払わないといけませんよということでもある。
結論として、10円で購入できるものと、10,000円で購入すべきものとはおのずからその性格と性質が違う。その選定にあたっても、全く別の方法(アプローチ)をとっていることは自らの経験を振り返っても明らかであろう。
逆にいえば、予算によって購入できるものが変わってくるということでもある。予算に合わせて買いたいモノを変えているとでもいおうか。
参加型開発の弱点のひとつ
参加型開発の弱点のひとつは、自分の財布の大きさでしかモノの価値判断ができないということである。つまり、10円や100円のモノしかみたことがない人は、1億円の構造物(平たく言えば施設)の価値がわからない、なんとなく無駄だとか裏金でどっかにその部分が消えてしまったのではないかという程度の認識しかできない場合もあるということがいいたいのである。
ボトムアップも、トップダウンも、両方とも必要であるし、その投入に応じた取捨選択の手段、調査や計画手法の方法論から倫理・価値観、ひらたくいうとモノサシを何本かもっていないと開発‘専門家’としては、ダメですよということをここでは強調したい。
つまり、‘スケール’を考えよ、‘スケール’にあわせた自分のモノサシを持てということである。
(この項、了)