國分功一郎「中動態の世界」を読んで思ったこと
國分功一郎「中動態の世界 : 責任と意思の考古学」(シリーズ ケアをひらく, 医学書院, 2017)という本を読みました。
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2017年に出版された本書は、小林秀雄賞など著名な賞も受賞しており、さまざまな方に論じられていると思います。
私は、ラジオでこの本の存在を知り、また、「シリーズ ケアをひらく」をずっと読んでみたいとも思っていたので今回手に取りました。
テーマとなっている「中動態」とは、文法事項における「能動態」「受動態」などの「態」の一つです。しかし、すでに失われた「態」です。そして、私たちのなす行為はすべて「能動(態)」か「受動(態)」のいずれかであると認識しています。
本書は、現在私たちが当然と思っている、「能動態」と「受動態」の認識を疑い、かつて存在した「中動態」の世界を探ります。そして、「中動態」から世界を見直すとき、「意思」や「責任」というものの新たな理解が提唱されます。もっと踏み込めば、「意思」とは本当にあるのか、問われます。
「哲学」「言語」など簡単ではないテーマを扱っており、実際私も理解しきれていない部分がたぶんにあるのですが、どうしても、本書を読んで、一つ強烈に思い出したことがあるので書き留めようと思います。
私は中学生の時、野球部でした。
しかし、別に野球が好きだったわけでも、運動が好きだったわけでもありません。
ただ、「運動部の部活に入らないとダメだ」という父親の考えで、嫌々野球部に入ったのです。
実際入ってみると、体育会系、男社会、運動、どれも私には向いていなくて辛かったです。(体力ついたことは良かったですが)
そのとき、父親に「あなたにやれと言われて始めたけど、部活辞めたい」と言ったときに言われたのですが、
「やらされたとか言わないで、自分でやりたくてやってると言って続けろ」
でした。
まさにこれは、本書で論じられている「能動」と「受動」ですべてを論じ、悪用しているパターンだと思います。
たとえどのような背景でも、「私が野球部に入った」ということは能動的であり、それは私の意思である。
しかし、その「私の意思」というのは後から既成事実として作られたもので、父親が私に責任を負わせるためのものになっています。
意思と責任は表裏一体であると感じます。
おそらく、中学生の私は「中動態」的に野球部に入部したはずですが、
それを今の能動・受動の世界では表現できないのでしょう。
こうした、「本人の意思」が疑わしい場面や言説は数多くあります。
社会的な事象としては、新型コロナウイルス感染症が拡大した際の自粛など、「自主的」という建前はあちこちにあります。
私は、そうしたものを見るたびに少し苛立ちます。
そして、私たちは幼少期の学校生活から、社会生活に至るまで、さまざまな場面で「意思」を求められます。
しかし、私はそれほど明確に自分の意思を持てません。
私は自分の周りの環境の中で、流動的な自分が形成されていると思っています。そしてそれでいいと思っています。
未来の私が、今の私と同じであり続けることはありません。
例え、今の自分が過去の自分の選択や行為の責任を持つことはできますが、
今の自分が将来の自分の責任を持つことはできません。
私に未来は私にもわからない、決めたくない。
中動態の世界では、そんな私もケアされるのでしょうか。
駄文・長文失礼しました。
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