動物化するポストモダンと現代の虚無感
ついこの前、『動物化するポストモダン』を読みました。
”オタクから見る日本社会”とサブタイトルにあるように、オタクの消費行動と作品の構造からポストモダンを解釈していくような書籍となっております。
その点、僕自身もオタクとして育ってきたので親和性が高かったですね。
今になってアニメオタクというものが市民権を得てきましたが・・。推しの子、鬼滅の刃、呪術廻戦、フリーレン?色々ありますね。
僕はその間の時代といった状態です。徐々に市民権を得ていった段階でした。
一番見ていた時代は、アニメというのは大っぴらには言えない趣味でしたが、仮に言ってもそこまで変では無いくらい・・?
僕は主に2010年代のアニメをリアルタイムに見て育ちました。当書籍はポストモダンを語ります。
ポストモダンとは近代の後、ここでは70年以降の文化的世界となります。アニメやゲームを関連付けて語るとしても、70年から2000年初期くらいまでで、当時リアルに触れていた訳ではないんですよ。
なので、当時を思い出して改めて考えてみることはできません。
ですが、これは僕が今の時代に感じる虚無感を読み取るヒントになるのでないかと感じたのです。この書籍はとりわけオタク文化に着目しているため、オタクとしてここまで生きた存在としての自分を理解するにも最適でした。
なので、僕みたいな今の時代の文化に対して考えたい若者にもおすすめできます。
当時リアルで触れてきた方は当時から今までを理解し比較できるので僕よりは遥かに解像度が高いかもしれませんね!
ポストモダンについて
改めて、ポストモダンとは近代の後の世界のことで、70年代以降の文化的世界としています。
このポストモダンという時代を目指す上で、日本の歴史の流れは敗戦し、復興という流れでした。そのため近代の人間観が育っておらず、浸透しやすいというのが背景としてあるようです。
アニメーションの構造理解を見てみると、そこにポストモダンの理解を含めるようなことが沢山含まれていて、本書ではその点に着目して文化論を展開していきます。
オタク文化が嫌悪されていた文化的考察
オタク文化が嫌悪されてきた理由として、作者は文化論的な考察をします。まず僕は先ほど2010年代にリアルタイムにアニメを視聴していた時代と言いましたが、
その時代のオタク嫌悪というのは体感としてアニメ趣味というのが、少し変わった性癖のように見られていた気がします。
二次元・三次元みたいに言われるように、少し変わった性的趣向があるかのような。それで肩身が狭くなるから大っぴらかに言えない・・。
でもこれは、マスメディアが犯罪者とアニメ趣味を結びつけるような報道をした背景があるのでしょう。
本書はあくまで文化論的に語る、そしてそもそもの出版時期もあって、その偏見が表れる前の時代までを主要に語っています。
アメリカ産で出発した疑似日本というものを受け入れるか否かの違いがオタク嫌いかそうでないかをくっきり分けていたと作者は述べています。
僕はその時代に生きていないので分かりませんが、すごく日本が盛り上がってきていた時代のように思います。
あらゆる物が流入し発展していくことが、輝かしい日本の発展になる反面、怖さもあったのかと。
江戸時代のような歴史がゆっくり動いていた時代を求める心があったのでしょう。
アニメーションは、その中で日本人特有の感性、文化を組み込んで作ったものとしてオリジナリティを作り上げていったのでしょうか。
そしてナルシズムが取り巻く状況とも結びつき加速していったのだと思います。
物語消費と世界の捉え方の変化
物語消費と聞くと、現代に生きる僕の感覚としては物語を消費的に視聴することだと字面から想像します。
サブスクも流行ってますし、沢山の作品を次々に見れる時代でしょう。
本書では作品の構造に着目する点が面白いところです。単に次から次へと視聴する、ただ行動が消費的という話でもなく、行動も含め作品自体が消費的に生み出されているものだと本書では読み取れます。
大塚英志氏の『物語消費論』を参照されていますが、
大きな物語:表層には表れない設定・世界観
小さな物語:特定の作品の中にある物語
その性質として、二次創作はシュミュラークルの氾濫と、この性質を説明するものとして挙げられています。
※シュミュラークル:作品のコピーと本体の区別が分からなくなる。ジャン・ボードリヤールが予想した文化産業の未来
世界の捉え方もツリーモデルからデータベースモデルへと変化していることから述べています。
ツリーモデルとは、深層に大きな物語(設定・世界観)があり、表層に小さな物語(個別の物語)がある状況で、深層によって表層が決められている。つまり深層に近づいていくことが目標です。
しかし現代のデータベースモデルでは、明確な深層というものがありません。作者はインターネットを例に出しています。
インターネットは深層が表層を決定しているということは無く、ユーザーの選択型になっていて、入り方次第でいくらでも結果が見え方が変動してしまうような構造になっています。
そこからデータベースモデル(読み込み型)としたのでしょう。
データベース化したことによって、作品を読み込む形(世界感、設定、キャラ)へ視聴形態が変化、そしてシュミュラークルが増殖(二次創作)しているといった話でしょう。
現代の作品鑑賞をしていて、虚無感を感じるのは必ずしも作品のせいではないでしょうけど、昔のアニメが良かったというのは単なる思い出補正でしょうか。勿論現代の作品にも面白いものは沢山ありますが・・。
アニメOPのアニソン感についても僕はよく言っているのですが、アニソン歌手や声優が歌うアニソン、川田まみ、fripside、鈴木このみ、藍井エイル、ZAQ・・・あのアニメの香りが欲しくてたまらんのです。
まぁアニメの内容としても、最近は例を上げるとすれば異能学園物ってあんまりないなと思います。
異世界系が流行って、リゼロ、このすば、オバロ、転スラ、無職転生、この辺りは流行りの先駆者だと思うのですが、シュミュラークルの増殖からもあるように、世界観を読み込んで流行りの”ジャンル”が台頭している感があるのですよね。
別に流行りが嫌いだとは思いませんが、僕自身も作品を何か作ろうと考えたら、世界を生み出そうよりも、こういう要素やキャラを入れようとか、設定を入れてみようとか、無数のデータベースの中から記号を集めたかのように発想してしまうのですよね。
別に悪いとは言いません。アイデアは何らかの発展から生まれますから。ただ虚無感の原因を考察する上で色々考えてしまっただけですね。
ノベルゲームの面白い構造考察
本書ではノベルゲームについても語られています。
僕はあまりノベルゲームを沢山プレイした訳ではないんですが、蒼の彼方のフォーリズムが特に好きですね。
ノベルゲームはヒロインが何人かいて、ヒロインごとにルート分岐があるマルチエンディング方式が当たり前かと思います。
確かに言われてみたらそうなんですが、別にそれが普通でないかと思ってしまう現状があります。
表層のドラマを楽しんでいるという表現が書籍的には良いでしょうか。
作品の性質としてそうとは知りつつも、分岐をセレクトとしてそれが運命になる。そしてそのドラマに感動させられる。
これはノベルゲームという性質上、構造が見えやすいため面白い見方だと感じました。
セーブができなくなるものとか、録画を探知するシステム、その他メタ的な要素は鳥肌が立つような体感があるのは事実です。
一旦距離をおいてもドラマを楽しもうという遊び方が普通だという感覚があります。なのでこのような見方はしたことがありませんでしたね。
動物的な行動。そして現代の虚無感について思うこと
今や作品は、小さな物語と大きな物語ではなく、小さな物語と大きな非物語へと変異しました。
先ほどのノベルゲームの例から言えば、
大きな物語というものが存在しないので、感動はシュミュラークルの水準で生じるドラマへの感動です。
一方データベースの水準で生じるシステムの欲求というのは、世界観や設定について語り合うことによってコミュニケーションを取るところへ行きます。
そこから二次創作だったり、考察だったりが生まれるムーブメントがあるのでしょう。
現代はサブスクサービスなどで作品の消費サイクルが早い時代です。僕もよく使いますが・・。
作品の楽しみ方や作られ方の構造が本書で語られたような状態であるとすれば、それに加え作品自体を消費する行動もスピードが上がっている。これが虚無感を作り出す原因の1つなのかもしれませんね。
でも仮に以前の大きな物語というのが現代に即しているかというとそれも分かりません。
もう視聴形態が完全に変化しています。次々に消費するならば、やはりキャラとかジャンルに着目して消費的に表層のドラマを楽しむ。そういう受動的に楽しむのが楽になっているのだと感じますし。
まぁその楽が虚無感に行き着く可能性は否定できませんが。
表層を楽しんで、時に響いた作品があったとすれば、その深めるところというのは、あくまで設定やメッセージを深読みする方向性であって、考察や二次創作なんだと思います。