見出し画像

『日本人の心と社会の成り立ち ~「甘えの構造」から見えること~』【#3-後半】

この記事は、『日本人の心と社会の成り立ち ~「甘えの構造」から見えること~』【#3-前半】の続きです。

日本社会と「甘え」の関係

「甘え」が強く根ざす社会であるにも関わらず、近代化に伴い流入された西洋概念への統合がうまく図れず甘えとの付き合い方が試行錯誤な現代日本。もしも、このまま甘えが拗れたのならば、その先には何が待っているのか。そこで、日本社会の未来予想図ともなりそうな世界観を持つ、アニメ『PSYCHO-PASS(サイコパス)』と共に、日本社会が抱える「甘え」の病理の片鱗をここでは見ていきたいと思います。
*PSYCHO-PASS(サイコパス)シーズン1のネタバレありです。

アニメ『PSYCHO-PASS(サイコパス)』の世界観

まずは、今回題材にするアニメ『PSYCHO-PASS(サイコパス)』について。この物語の舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格指数が数値で表せるようになったシビュラシステムというコンピューター(AI)が社会に導入され鎖国化された西暦2112年の日本。このシステムの登場により超管理社会となった日本では、個人・社会全体の精神的なストレス度合いが全て数値でモニター出来るようなり、危険因子となりやすい犯罪予備軍・潜在犯(犯罪者になりやすそうな傾向を持つ者たちや加害意識のある者たち)を事前に見つけて排除することが可能となりました。その結果、紛争で治安が悪化の一途を辿る世界の中で、唯一日本だけは犯罪率が圧倒的に減少、人々はシビュラシステムに大きく依存していくことに。

人々は、このシビュラシステムを通じて、性格適正やストレス耐性などを行い、日々の過ごし方はもちろん、結婚相手、自身の職業や生き方までをも決めていくことになります。

物語は、そのような超管理社会において潜在犯が出た時の対処班として存在する警察部隊である公安局のメンバー(監視官と執行官たち)の視点から中心に進んでいきます。

この作品に関して、この記事では、① 「甘え」が行き過ぎた先にある世界、そして、②物語に見られる健全な自己形成の過程、の二つを「甘え」の病理というテーマに合わせて解説していこうと思います。

「甘え」が行き過ぎた先にあるもの

サイコパス(PSYCHO-PASS)の描く世界。人間の心理状態や精神的安定度、性格適性などを全てシビュラシステムによって全て管理されている社会では、高いレベルの治安維持が実現し、そこに住む人は、一見幸せな生活を送っています。

しかしながら、全てを完璧なコンピューターの一存に任せることに慣れてしまった人々は、自ら考えることをやめてしまいます。まさに、土居氏も、「甘え」の病理の一つとして挙げていますが「自分がない」状態に慢性的に置かれるのです。

そんな監視社会の中で、犯罪予備軍の潜在犯が探知される時があります。シビュラシステムが探知した潜在犯確保の現場で公安局に入局したばかりの新人監視官・常守が目撃したのは、何かしらの影響でストレス数値が上昇したところをシビュラシステムに探知され、焦ってパニックになった捕獲対象者が、追われる恐怖から犯罪予備レベルから、排除対象の犯罪危険人物レベルへと精神の不健康度の数値をどんどん更新していく様子(この精神の健康度を物語の中ではサイコパス(PSYCHO-PASS)と呼んでいます)、この捕獲対象者はその場で射殺されました。

そして、追い込まれてヤケクソになった潜在犯の逃走に巻き込まれた被害者の女性は、そのショックから保護される際に、彼女自身も精神の不健康度の数値を上げていき(ここでは「サイコパスが濁る」という表現を使っています)、犯罪予備軍・潜在犯と認定され、捕獲されてしまいます。

公安局監視官と執行官たちは、このような犯罪者・または予備軍・潜在犯を見つけた時にドミネーターという銃を扱い、犯人を捕え(もしくは殺し)ます。この銃は、シビュラシステムにより操作されており、サイコパスの数値によりトリガーが始動し、その数値によって捕獲するか殺すかも判断が決まります。そのため、サイコパス数値が低い人に対しては一切使うことが出来ない仕様になっています。

機械に委ねる主体性

この物語がとても面白いのは、そもそも、状況により変化があって当然な人間の気持ちを機械によって一方的に判断し制裁を加える社会の仕組みってどうなのよ?という疑問はもちろん、そのような絶対的なシステムを持つシビュラシステムがもしも絶対正しいわけではないとしたら?というところが描かれているのが、とても興味深いです。

ただ、ここで話を「甘え」の病理に戻していくと、シビュラシステムというコンピューターを盲目的に信じ、依存してしまう関係を人々が求めていった背景にあるのは、「甘え」なのではないかということです。世界の情勢が不安定になり、不安が募る世論の感情の受け皿となったのが、見えない人の心の不安定さを数値化しようとしたシビュラシステムであるということ。そして、本来であれば感じるはずの、何も犯罪を犯していない人を罰する理不尽に対する罪悪感も、機械に完全に委ねることで放棄することが出来るようになる。そんな完璧に機械に依存した社会。

これは、流れとしては、カウンセリングなどに、絶対を確信できない人的サービスに取って替わる存在としてAIを積極導入しようとする、現在の日本(もしくは先進国)の一部の人たちの精神医療への向き合い方にももしかしたら共通している点があるのではないかなと感じます。そこには、突き詰めると、前編にも挙げた、何かに委ね続けていないと「気がすまない」的な強迫心理も関係しているような気もします。例えば、見えにくい事象を相手にした時に、白黒つけずにはいられない、完璧を求めたい、といった不安に駆られる気持ちを極端に抑え込もうとしている状態になっているという見方をすることもできるのではないかと。AIを補足的に上手く活用しながらのセラピーでしたら話はまた別ですが、人間の心理を合理的に処理していこうとする考えにはわたしは躊躇いがあります。

そのように、不快な感情を帳消しにするようなシステム作りを目指していった社会がどのような危険を孕んでいるのか、というところが物語では描かれるのですが、その世界を生きる人間たちの事情から、「甘え」の病理の様相がさらにはっきりと見えてきます。

「自分がない」

土居氏は、著書の甘えの構造の中で、「甘え」の病理の一つとして挙げている「自分がない」について、このように語っています。

日本語の「自分がある」「自分がない」について、その意味するところを考察してみよう。まず非常にはっきりしていることは、この二つの表現がそれを用いる個人の周囲との関係を標示していることである。ここで周囲というのは自然的環境ではなく、個人がその中に置かれている人間関係すなわち集団のことである。この関係は大体次のようになる。もし個人が集団の中にすっかり埋没していれば、その個人には自分はない。しかし集団の中にすっかり埋没しているところまでいかなくても、したがって個人が集団の中にある自己を自覚し、場合によっては集団の利害と一致できない自己を苦痛を以て身飛べる場合でも、もし集団の物理的強制の結果としてではなく、むしろ集団に所属していたいという自らの願望が苦痛より優っている故に、苦痛を押し殺して、あるいはまた、結局それと同じことであるが、集団に対する忠誠心の故に、集団と対立する自己を主張しないとするならば、やはりこの場合もその個人に自分はないと言わなければならない。ここまでいえば、「自分がある」という表現がどのような状況に妥当するかは自ずと明らかであろう。それは必ずしも集団を否定することには存しない。しかし集団所属によって否定されることのない自己の独立を保持できる時に、「自分がある」と言われるのである。

土居健郎『「甘え」の構造』pg.217-218

シビュラシステムに管理される社会を生きるサイコパスの物語の住人たちは、サイコパスの数値により、一般人と犯罪予備軍の潜在犯に分けられ、潜在犯と認定された人たちは、サイコパス治療施設に送られるか(この場合、施設から戻ってくることはほとんどない)、潜在犯の捕獲を担当する公安局の執行官のどちらかになります。基本的に、サイコパス数値が高かった者に対しては様々な権利が剥奪された社会になっているようです。この物語では、一般人で公安局に配属になった常守(呼び方:ツネモリ)、彼女の直属の上司の宜野座(呼び方:ギノザ)、そして犯罪予備軍の潜在犯の数値を持つ執行官たちの人間関係が中心に描かれます。

この三者の様子をさらに説明すると、常守は、シビュラシステムの適正検査で公安局への配属が決まった新人公安局監視官で、正義感が強くちょっと人を信じやすいナイーブな感じがあります(後に、サイコパスが濁りにくいという特異体質を持っていることが解明されます。)宜野座は、エリート街道まっしぐらでルールに忠実な彼女の上司ですが、潜在犯を扱う仕事を通じて悪化していく自身のサイコパス値に不安を抱えています。そして、犯罪予備軍・潜在犯の執行官達は、どこか人生を諦めつつも一芸に秀でているような者や、シビュラシステムが出来上がる前までは刑事をしていた経歴の自分の信念を強く持つ者で構成されています。

この三者の様相が、ある連続殺人事件を通じて、絶妙に絡み合いながら進んでいくのですが、その様子はまさに土居氏が説明するこの「自分がある」「自分がない」を解釈していくのにピッタリハマります。

例えば、このシビュラシステムが、集団のルールを決めているものだとして、そのルールに異論が無い者は、自動的に「自分がない」けれども社会に馴染める存在に。そして、もともと危険因子がある人はもちろん、シビュラシステムのルールに当てはまらないと判断されるような信念を強く持つ者は、シビュラシステムとの価値観の衝突から自動的に攻撃力の高い者といった数値を受ける。結果、「自分がある」者の存在は、自動的に否定され犯罪予備軍・潜在犯となって虐げられていく仕組みがあるのです。そのため、この世界では、シビュラシステムに完全管理された範囲で、それなりの生き方を見つけ生きるのが人の幸せとなっていきます。

シビュラシステムの不備に気づいた常守、そして宜野座は、「自分がある」「自分をなくす」の間で葛藤することになるのですが、ここでは、よりその葛藤が強かった宜野座に焦点を当てていきたいと思います。

物語に見られる健全な自己形成の過程

エリート街道まっしぐらの宜野座は、初めはいけすかない感じのちょっと嫌味な存在であるものの、物語が進むにつれ、すごく共感出来る、むしろじわじわ好きなれる人間味あるキャラでもあります。

彼は、シビュラシステムのサイコパス度合いが日に日に濁っていく自身の状態にとてつもない不安を抱えています。それは、特に悲惨な事件を担当した後には顕著で、そこには、シビュラシステムに対する異和を感じつつも、その規範中に収まり続けていたいという、まさに上記で述べた土居氏の説明する集団に所属する自身の立ち位置への葛藤を抱えています。

サイコパスの数値が犯罪予備軍・潜在犯になれば、自身も執行官へと降格してしまう。そこには、エリートイズムへの挫折以外にも、この世の終わりかのような絶望に近い恐怖を感じています。そんな彼が、物語を通じてどう変容していくのか。その様子が、自己成長の鍵となるものを記しているように思います。

宜野座にとっての父親の存在

宜野座が経験しているのは、シビュラ社会の中に心理的所属を望む「甘え」と、自身に湧き出てくる信念との間にあるギャップをどう埋めていけばいいのか、という葛藤です。

彼が、サイコパスの度合いをとても恐れるのには、同じく警察官であった父親が潜在犯になってしまったこともありました。そのため、自分も同じ道を辿るのではないか、という恐怖に常に怯えていたのです。

物語がどんどん進んでいくにつれて、サイコパスの数値が後少しでアウトとなる手前まで来た時に、彼は、それまで避けていた父親に会いにいきます。

父親の人生と、彼の考え方を聞いた宜野座は、自分の葛藤を受け止めてくれる父親の存在にとても安心しました。そして、ある事件を最後に、吹っ切れたように執行官の道を歩むことを決めるのです。奇しくも、父親も現在は執行官として働く一人です。彼にとって、父親の生き様を知れたことは、自身の生きたい方向性を示してくれる指針のような役割を果たしたように思います。それは、自己成長のために必要な理想化転移のニーズが満たされた場面で、この感覚が、彼の自信、そして、安心感に繋がったように感じます。そして、その安心感を得ることが出来た宜野座は、社会に対して抱いていたある意味不健全な「甘え」を手放し、自立(社会からの拒絶という潜在犯認定)を選ぶことが出来たのではないかと思います。

宜野座の経験した「甘え」

宜野座がシビュラ社会の枠から出ないように努力していた時に抱いていた「甘え」は彼の社会的位置を担保していた一方、彼の自我の一部を否定する必要性を課して彼を苦しめていました。これは土居氏の説明する「自分がない」ことを促してしまう甘えの病理の一つであると言えると思います。

それに対して、彼が父親に向けた「甘え」には、本人が自ら独り立ちすることを可能にすることを促す相互作用的な愛の希求が見受けられたように思います。父が自身の不安を受け入れて親身に相談に乗ってくれたことや、自分の生き様をどんなことがあろうとも肯定してくれる確実感を感じられた宜野座は、「甘え」が健全に受け入れられた経験をし、それが彼を社会の試練へと立ち向かわせる力を与えたのだと思います。

余談ですが…、

余談ですが、サイコパスシーズン2からの宜野座は、シーズン1の様子とは打って変わり、かなり無敵でめちゃくちゃ強いかっこいい男として物語のさらに主要な人物へとなっていきます。

そして、なんと言ってもこの作品の魅力は、潜在犯と一般人が分離した社会において、その両者が唯一共存するといえる団体:公安局の人間ドラマにあります。それは、甘えシリーズの#1でも取り上げたように、お互いの立場が大きく違う者同士が、相互に助け合ったり、弱みを曝け出したり、認め合ったり、という義理の人情のような関係性が登場人物たちの間で成立しており、組織の一員としてい続けながらも組織の革命に奮闘するといった縦割り社会の中の人間ドラマの構図、辛いながらも決して孤独ではない安心感が描かれているところがとても日本的(踊る大捜査線的)かと思いました。その点が、ハリウッドなどで描かれるSFディストピア作品と似て非なる魅力を生み出しているような気も。ハリウッド映画の主人公たちは皆、これでもかというくらいの孤独を経験するのがとても象徴的です。…ちょっと今回の本題から逸れてしまうので余談として触れてみました。

まとめ

この記事では、アニメ『サイコパス』の世界観とそこに登場するキャラクターの一人宜野座に焦点を当てて、「甘え」の病理と社会についてを考えてきました。

宜野座というキャラクターは架空の存在であるものの、物語に於ける彼の視点を分析して考えてみると、私達は日々、現代社会に置かれた自分の立ち位置というものをどれほど大きく意識しながら生きているのだろうか、ということを考えされられます。それが、日本社会のような、集団の結束力や所属意識を強く持ち尚且つ「自分がない」ことを半ば求められているような環境だった場合、異端なものを極端に排除する力は強まるため、尚更、自我を貫きにくく、生きづらい可能性も出てきます。また、宜野座と父親の関係と比較して、日本社会を一つのユニットとして見てみると、AIに頼り切りになった社会には、自立を促してくれる父親的存在が不在なのではないか、とそんな精神的不安定さについても考えました。

そう当てはめてみると、そのようなインセキュアを抱える発展途上の社会性の中で、「甘え」とどう付き合っていくことが、自己の安定、そして成長に生かせるのだろうかを模索していくことは大切になってくるのかな…と、そんなことを感じています。とても、長くなってしまいましたが、今の段階で甘えと社会の関係について言語化出来るのはこのあたりまでかな…といったところで、一度、考察をここで終えようと思います。

バトンタッチ

この「甘え」シリーズでは、甘えの雰囲気を探るところから、甘えの成り立ち、そして甘えのネガティブな側面、と、土居健郎著の『「甘え」の構造』をアニメや漫画の人気作品とともに振り返ってきました。

ここまでの考察を通じ、「甘え」の始まりとなる母子一体感が弊害された時に起こる不安定さが、個人の自己形成以外にも社会単位で起きている現象であることが理解できてきました。そして、それは、西洋の個人主義的な概念が導入された明治時代以降の日本が経験している文化適応へのストレスとも言えるのかもしれません。そこで、次は、ゆうきさんに、第五章『「甘え」と現代社会』に向けて、近代、特に戦後以降、どのように日本の親子関係が変わってきているのか。今まで出てきたキーワード:『母子一体感の弊害』や『社会に父親が不在の感覚』などについてをもっと掘り下げながら日本人・日本社会と甘えの関係を分析してほしい!!とバトンを繋ぎます。

参照:
土居健郎(2007)「甘え」の構造(増補普及版)弘文堂
内沼幸雄 (1997) 対人恐怖の心理:羞恥と日本人 講談社学術文庫
アニメ『PSYCHO-PASS (サイコパス)』


いいなと思ったら応援しよう!