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ローマ人の物語 ハンニバル戦記【上】3 (新潮文庫) | 本とサーカス

ローマ人の物語 ハンニバル戦記 [上] 3
著者 塩野七生
出版社 新潮社
発売日 2002年




プロセスとしての歴史は、
何よりもまず愉しむものである。

ローマ人の物語 ハンニバル戦記【上】3 (新潮文庫)p.15


 イタリア半島を制圧したばかりの新興国ローマと、地中海最大の海運国カルタゴが激突したポエニ戦争
 共和政から帝政に移行する“転機”となったこの戦争は、大きく3つに区分される。まず、シチリア島を舞台に計4回の海戦が行われた第1次ポエニ戦争(紀元前264年〜紀元前241年)。カルタゴ軍がイタリア半島に乗り込み、ローマと死闘を繰り広げた第2次ポエニ戦争(紀元前219年〜紀元前201年)。そして大国カルタゴが消滅した第3次ポエニ戦争(紀元前149年〜紀元前146年)だ。本書は、第1次と第2次が勃発するまでの25年間を描く。

 さて、この3つの中でも、我々後世の人間をエキサイトさせるのが第2次ポエニ戦争だろう。
 本書のタイトルにも使用されている<あの男>が、<あの動物さん🐘>を従えながら<あの山>を越えてイタリア半島に攻め込み、ローマ市民は恐怖のどん底に突き落とされる。そんな滅亡の危機に追い込まれたローマを救ったのは、青年期から<あの男>を研究し続けた1人の若き貴公子だった———。ハリウッドの脚本家でも書けないような、映画以上にドラマチックな展開に、この戦いがきっかけで古代ローマ史の魅力に取り憑かれた人は多いのではないだろうか(映画化されないのが不思議である)。
 では、本書で描かれる第1次ポエニ戦争は退屈なのか。いやんにゃことはない。第1次ポエニ戦争も第2次に劣らずエンタメ性に富んでいるがゆえ、読み進める手を止めるのは困難である。農耕民族であるがゆえ、それまで軍船を持ったことがなかった“海戦童貞”のローマが知恵を振り絞って生み出した<あの新兵器>や、航海士の忠告を聞かなかったがゆえに起きた<あの悲劇>など、スケールは違えど見どころは第2次にまったく引けを取らない。

 ではここで、「さっきから、あのあのあのあのウゼェな…」と苛立つ読者の不快感を払拭するためにも、第1次ポエニ戦争の導入部分、つまりポエニ戦争開戦のきっかけを簡単に解説しようと思う。


 事の発端は、シチリア島で起きた。
 イタリア半島のつま先に位置するシチリア島は、当時ギリシア人の植民を起源とする東部と北アフリカの都市「カルタゴ」が支配する西部に分裂されていた。 

 紀元前265年、東部にある強国シラクサが、同じく東部にあるメッシーナに侵攻する。自力での危機打開は不可能と早々に割り切ったメッシーナは、目と鼻の先にあるローマに救援を依頼した。

「あの、ローマさんお忙しいところすみません。シラクサのやつらが急に攻めてきて…ハハハハ。どうか、救援をお願いしたいのですが…」

 救援要請を受けたローマは、渋った。
 ビビったのである。シラクサにではない。「海」にである。農耕民族のローマは、それまで1度として、海を渡ったことがなかった。

 無論これは私の推測(というか妄想)だが、救援要請を受けた直後に開かれた元老院会議ではこんな議論がなされたのではないだろうか。


「元老院の諸君! 本日はメッシーナからの救援要請について議論したい!」当時の執政官の1人、アッピウス・クラウディウスが声高に叫んだ。

「拒否しましょう!」元老院の1人が言った。

「なぜだ?」

「我々は船を持っていない! シチリア島に行くのが私は怖い!」

「私も怖い!」

「私もぉ!」

「静粛に! 諸君、落ち着くんだ。怖いのは私も同じだ。しかし、考えてみてほしい。我々がメッシーナからの要請を拒否したらどうなる?」

「メッシーナは…灰となる?」

「いや、その前にすることがあるはずだ」

「……はっ! 今度はカルタゴに救援要請を……」

「その通り! カルタゴは地中海最大の海運国。もしカルタゴがメッシーナまで手中にすれば、イタリア半島を囲む海域の制海権はカルタゴのものになると思った方がよい」

「それは…ローマ連合に属す他の都市たちが危険に晒されます!」

「その通り。カルタゴがメッシーナの手に渡るということは、我々にしてみれば『イタリア本土とシチリア島の間に眼に見えない橋がかけられることを意味する』のである!」


 紀元前264年3月、執政官アッピウス・クラウディウスは1万7千の兵を乗せてメッシーナ海峡を渡ると、到着後すぐにメッシーナと同盟協定を結んだ。これを脅威に感じたシラクサとカルタゴは同盟を結び、ローマ軍のこもるメッシーナに向け侵攻を始める。だが陸での戦いにおいて、彼らはローマの敵ではなかった。ローマはシラクサとカルタゴを撃破。シラクサはローマと和平同盟を結んだ。 
 しかし、当然ながらこれで「はぁ、一件落着ぅ♪」とはならない。メッシーナ、そしてシラクサとシチリア東部をまるごと傘下に入れたローマに、カルタゴが脅威を抱かないわけがなかった。

「ローマとシラクサの同盟は、カルタゴに、現状以上の勢力拡大への期待を断っただけではない。シチリアに所有していた既得権すら、侵蝕される怖れをいだかせたのである。」(p34)

 こうして、地中海を舞台にしたローマとカルタゴの全面戦争に突入するわけだが、結論(ネタバレ)を述べると、第1次ポエニ戦争における4回に渡る海戦のうち、ほぼローマが勝利を収めてしまうのである。
 たった数kmの海(メッシーナ海峡)を渡るだけで膝をガクブル震わせていた民が、地中海一を誇る海運国に次々と勝利を収めていく様は痛快極まりなく、読み進めながらつい握り拳をつくってしまうほどエキサイティングだ。

 なぜ、海戦童貞だったローマ(弱者)が海運国カルタゴ(強者)に勝てたのか。「リソース(金、時間、人)の少ない企業や個人が、いかにして大企業との競争に勝っていくか」という現代ビジネスにも通ずる教訓が、そこにはある。起業、スモールビジネスを始める方は是非本書を手に取り、確かめていただければ幸いだ。

 一読あれ。



主な内容


本書で描かれている年代

紀元前265年〜紀元前218年

主な出来事

第一次ポエニ戦争勃発
紀元前260年、ミラッツォ沖の海戦(ローマの勝利)。
紀元前257年、パレルモ沖海戦(ローマの勝利)。
紀元前256年、リカータ沖の海戦(ローマの勝利)
紀元前255年、ヘルマエウム沖の海戦(ローマの勝利)。シチリア島に戻る途中、海難事故でローマは6万人を失う。
紀元前253年、ローマ軍2度目の海難事故で150隻の船と多数の人間を失う。 
紀元前249年、ローマ海軍カルタゴに初めて敗戦。
紀元前247年、ハンニバル・バルカ生誕。
紀元前241年、ローマとカルタゴ講和。

【主な登場人物】

執政官アッピウス・クラウディウス
紀元前264年、第一次ポエニ戦争勃発時の執政官。

執政官オタチリウス・クラッスス
紀元前263年の執政官。サムニウム族出身の平民。

ヒエロン
シラクサの君主。ローマと同盟を結ぶ。以降、何ひとつ条件をつけずに同盟条約を更新する。

執政官グネウス・コルネリウス・スキピオ
紀元前261年の執政官で、後の英雄スキピオ・アフリカヌスの祖父。ローマ最初の海軍の指揮を任される。

執政官ドゥイリウス
紀元前261年の執政官。ローマ海軍の秘密兵器「カラス」を考案する。

執政官レグルス
紀元前256年の執政官。任期中に戦果をあげようと友軍の到着を待たずして攻撃を仕掛けたため、ポエニ戦争で初めてローマが敗戦する。カルタゴの捕虜になった後、最終的には無惨な殺され方をする。

傭兵隊長クサンティッポ
カルタゴに雇われたスパルタ人の傭兵隊長。100頭の象を駆使してレグルス率いるローマ軍を倒す。

執政官メテルス
紀元前251年の執政官。兵たちの象への恐怖心を払拭させ、パレルモ防衛に成功する。

執政官クラウディウス・プルクルス
紀元前249年の執政官。トラパニ港外の海戦で敗れる。鳥占いを蔑ろにしたため、莫大な罰金を払う羽目に。

執政官カトゥルス
紀元前241年の執政官。第一次ポエニ戦争最後の海戦で勝利をもたらす。

ハミルカル・バルカ
カルタゴの英雄ハンニバル・バルカの父。スペインに本拠地を築く。


引用


そして、歴史はプロセスにある、という考え方に立てば、戦争くらい格好な素材もないのである。なぜなら、戦争くらい、当事国の民を裸にして見せてくれるものもないからである。(p.14)

隣りの町に行くのも帆を張るギリシア人とは、農耕民族であるローマ人はちがった。(p.26)

伝統的にこの一門は、対平民階級への強硬路線でも知られていた。高慢、強気、非妥協的、先見性、確固たる意志、強い責任感などが集まって、肉体ができているような男たちばかりなのだ。
(クラウディウス家について言及。p.28)

敗れた部族の同化には熱心だったローマ人だが、(中略)自分たちの最高指導者に、かつての敵を、しかもわずか20年後に選出したとは特筆に値する。だが、ローマ人のこの性向は、ポエニ戦役を闘っていくローマにとって、大きな利点をもたらすことになる。(p.31)

軍隊の総司令官でもある執政官が、自分の任期中に成果をあげようとしがちな点であった。(中略)ローマ人にとって、首都で凱旋式を挙げることくらい、市民として名誉なことはなかったのだ。(中略)これはローマの執政官を短期決戦型にしやすく、ポエニ戦役のような長期戦では、無視できない欠陥になりつつあった。
(寡頭制の短所について言及。p.57)

敵方の捕虜になった者や事故の責任者に再び指揮をゆだねるのは、名誉挽回の機会を与えてやろうという温情ではない、失策を犯したのだから、学んだにちがいない、というのであったというから面白い。(p.63)

8,000ものローマ兵が、象の群れに踏みつぶされて死んだのである。(p.66)

共和政ローマでは、軍の総司令官でもある執政官に対し、いったん任務を与えて送り出した後は、元老院でさえも何一つ指令を与えないし、作戦上の口出しもしないのが決まりだった。任地での戦略も作戦の立案も、完全に執政官に一任されていた。敗北の責任を問わないのも、心おきなく任務に専念してもらうためでもある。また、講和を申し出るのも受けるのも、講和の条件を提示することからその交渉まで、執政官に一任されていたのである。(p.85)

前673年から開けられたままであったヤヌスの神殿の扉も、実に432年ぶりに閉じられた。(p.87)

戦争終了の後に何をどのように行ったかで、その国の将来は決まってくる。(p.90)

ローマ人とカルタゴ人とのちがいの1つは、他民族とのコミュニケーションを好むか否か、であったような気がする。(p.103)

ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかったところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった。(p.104)

ローマ人は、今の言葉でいう「インフラ整備」の重要さに注目した、最初の民族ではなかったかと思う。インフラストラクチャーの整備が生産性の向上につながることは、現代人ならば知っている。そして、生産性の向上が、生活水準の向上につながっていくことも。(p.109)

同盟国と属州のちがいは、没収された土地が、一部か全部かのちがいだった。(p.113)

何ごとにつけてもシステム化することの好きなローマ人の性向は、ローマの軍団編成に最もよくあらわれている。(p.127)

ムダな一言【読了者用】


ヒエロン、めっちゃいいヤツ!!


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