日本画家-吉川霊華:優美な線描
日本画家-吉川霊華
吉川霊華(きっかわ れいか、1875年(明治8年) - 1929年(昭和4年)/明治大正の日本画家/美術評論)
大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に、線の探求者として、独自の存在感を示した。
優美な線描
優美な線描こそが、吉川霊華の世界だろう。
吉川霊華は明治末から昭和初めにかけて、近代絵画は写実やモダニズムに向かう方向が主流だったが、そこから乖離して、線の美を探究した日本画家だった。
忘れられた存在
帝展などには、距離を置いていた、いわゆる支援者(パトロン)に恵まれていたという事になるが、作品は個人像が多い。そして、忘れられた存在となっていた・・・
略歴- 吉川霊華
幼い時から、詩文、画作に優れ神童と言われた。小学校を4年で辞め、漢学は父(吉川辰夫:昌平坂学問所の助教)から仕込まれた、以後学校に通うことはない。但し、教養豊かな家庭環境や、父の蔵書を手当たり次第に読む程の読書好きであり、独学的な傾向で教養を育んでいく。
1883年(明治16年)8歳の時、近所の遊び友達の父・楊洲周延(ようしゅうちかのぶ、天保9年(1838) - 大正元年(1912年)/江戸時代末期から明治の浮世絵師)に浮世絵の手解きを受け、「延景」の画号を受ける。
国風画会・鳥合会
1900年(明治33年)大和絵系の日本画家大坪正義や高取稚成ら組織した国風画会に参加。
1902-03年(明治36年頃)、吉川霊華は、鏑木清方の主催の研究会(鳥合会/うごうかい)で、歴史風俗画会のメンバーに、池田蕉園たちとなる。
1913年(大正2年)、松林桂月(まつばやし けいげつ、1876- 1963/日本画家-南画家)の紹介で結婚する。翌年、父が亡くなるが、その遺産で書籍や美術品を収集し、更に研究を深めていった。- 画業の意義に視点を置く
1915年(大正4年)から田口掬汀(たぐち きくてい、1875 -1943/小説家、劇作家、美術評論家)が発刊した美術雑誌『中央美術』の編集同人となる。以後、同誌をはじめ他の美術雑誌に執筆に励む。
1916年(大正5年)、田口掬汀の呼びかけにより、結城素明、平福百穂、鏑木清方、松岡映丘と吉川霊華の5人で金鈴社を結成する。霊華の作品はここでしか観られない・・
藐姑射之処子(はこやのしょし)
藐姑射之処子(はこやのしょし)
紙本彩色 /1918(大正7) -第3回金鈴社展 / 東京国立近代美術館
肌が、雪のように白く美しい、霞を食し、ひとたび思えばあらゆる災いから人を救い、豊穣をもたらす・・
離騒
大正末年に制作された「離騒」は、15年ぶりに官展に出品した。
左図 - 離騒-双幅
右図 - 離騒-双幅
双幅 各93.6x136.4cm、大正15年(1925年)第7回帝展。
題名の「離騒」とは中国戦国時代の楚の政治家で詩人・屈原の代表作「楚辞」にある長編詩で、そこから着想を得ている・・
東京国立近代美術館 吉川霊華展/取材 2012.6.11
その線の美しさは精霊の動きにもたとえられて絶賛された。しかし、主流的表現からの距離があり、残念なことに、知名度は高いとは言えなかった。