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(書評)アウトサイダー・アート (光文社新書) -服部 正 (著)

アウトサイダー・アート (光文社新書)  – 服部 正  (著)
初版 2003/9/17

読みやすく、わかりやすい書籍だ。
そのサブタイトルには、現代美術が忘れた「芸術」とある。
従来型のアートの枠組みにとらわれないアートの概念。本書は、そんなアウトサイダー・アートから、アート全体を俯瞰して、その本質を解き明かす試みを感じる。


概要として
「アウトサイダー・アート」(アールブリット)とは、精神病患者や幻視などから、広義には、正規の美術教育を受けていない作家が、技法や様式などの既成概念にとらわれず作り上げた、内的な創作欲求や心の癒しを得るため追求の純粋無垢な芸術作品だ
当初は、20世紀初頭にヨーロッパの精神科医たちによって、認識された。 そして、この芸術は、その当時の前衛芸術家たちにも多大な影響を与えている。
そして、ジャン・デュビュッフェ(Jean Philippe Arthur Dubuffet, 1901-1985/仏)は、それを「アール・ブリュット((L'Art Brut/生の芸術)」を提唱した。そのジャン・デュビュッフェのコレクションから発足したのが、1976年に設立された「アール・ブリュット・コレクション(Collection de L'Art Brut Lausanne)」(スイスのローザンヌ)だ。
そして、その時から、その無垢の価値が認識された。そして、現在形で、日本国内でも、それらの作品への関心が高まりつつある。
著者は、そこには、モダン・アートが置き忘れてきた「もうひとつのアート」の魅力があると述べる。

この書籍の前半は、アウトサイダーアートの解説や歴史的な流れにポイントが置かれ、後半は、現実的な実際のアウトサイダーアートのガイド・ツアーとで、構成されている。分かりやすい仕切りだ。

前半では、美術を分類する概念のあいまいさ(美術史のあいまいさ)p14
(註)私も同様に感じるのだが、ただ、この分類は、後に根本的な改正や、その時代の視点を認知し、例えば修正するにしても、そのベースになる部分は必要だ。(そのデータベースの役割も、教育・研究機関というものだ)
山下清、日本のゴッホ(p98):精神発作に苦しみながらの画作したゴッホの作品は、健康な内容だ。(p100)
アウトサイダーアーティストは、描かずにはいられない(p134)

(註)このあたりの視点では、
その山下清だが、彼は、仕事として絵を描いている、それは、「おにぎり」のためかも知れないのだが、とにかく、描こうとして描いているのだ、だから、駄作も多い。
もう少し、申し上げると、「描こうとして描くor 純粋に感性から描く」その動機は何でも良いのだ。問題は作品だ!それら、すべては、作品が語るからだ。

また、本書では、アウトサイダーアートを学際性にも視点をあてている。遠近法や作品そのものの動き(p162)
繰り返せばアートになるアンディ・ウォーホル(p204)(註)ただ、アンディ・ウォーホルへの著者の視野が狭い。
量は質を凌駕する。(p213)(註)しかし、それは、ヒトやモノにもよるのではないだろうか。

そして、その中でも、アウトサイダー・アートの『独自性』と呼ばれるものの本質ではないか(p.223)、また、「教育が、人類の「積み上げて」きたものを引き継ぐ営みである限り―教育とアウトサイダー・アートは相容れないもの」そして、「戦後の日本におけるアウトサイダー・アートは、常に『教育』という重い十字架を背負うことになった」(p.104)という著者の指摘がある。(註)ただ、ここは、少し複雑だ。

(註)アウトサイダー・アートでも、インサイダーアートでも、金銭目的でも、療法として無垢のアートでも、どちらでもいい、問題は、作品の内容だからだ。それがアートの本来なのだ。

著者は、キュレーターであり、実際に、究極の制作の現場で絵画を仕上げるシーンを自らの身体で試みていれば、この辺りの視点も変化するのかも知れない・・ただ、著者の学芸員としての視点は、秀抜だ。

ただ、この書籍には、アウトサイダー・アートの観賞の仕方、楽しみ方も書かれている。
表現を衝動!芸術・表現行為の答えより、疑問・驚き!の大切さ・・・
入門者にも、やさしく説明してくれる書籍であり、その中には、専門用語も少なく、読みやすい本だろう。


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