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(今日の一枚)「炎舞」速水御舟の幽玄な視点

「炎舞」は、焚き火に群がる蛾の舞う姿を克明に描かれている。
それまで、蝶は美しく、蛾は、どこか、不気味さも持ち合わせていると感じたのだが・・・
闇の中に現れた「幽玄で実に美くしい世界だ」、そして、その時から、蛾の姿をあらためて見るようになった。信州の闇の中に舞い広がる世界は、正確な写実で、艶やかであり幽玄(ゆうげん)だと感じた。
私的な事だが、それは、最初の勤め先のロビーに貼ってあった「山種美術館の速水御舟のポスター」を見た時、衝撃を受けた。
正確には、蝶と蛾の分類は難しいらしい、岩と石の違いのようなもの、かも知れない・・

炎舞

(cc) 速水御舟/山種美術館

そして、「炎舞」は、昭和52年(1977)に重要文化財に指定され、速水御舟の最高傑作として、また近代日本画史上における傑作としても高い評価を受けている。
「炎舞」1925年(大正14)速水御舟/重要文化財
絹本(けんぽん)・彩色・額(1面)、120.3×53.8cm
(註-引用:山種美術館)作品の制作にあたっては、大正14(1925)年の7月から9月にかけて約3ヶ月間家族と共に滞在した軽井沢での取材をもとにしている。毎晩、焚き火をたき、そこに群がる蛾を写生したり、採集した蛾を室内で写生したという。蛾に関しては克明な写生がいまも残されている。

速水御舟(はやみぎょしゅう、1894-1935/明治27-昭和10)日本画家
明治27年(1894)、東京浅草、生まれ。
松本楓湖(ふうこ/幕末から大正期の日本画家)に師事(安雅堂画塾)。巽画会(たつみがかい/明治からの美術団体)、そして、今村紫紅(いまむらしこう)に従い、紅児会(こうじかい/大和絵系日本画)に参加した。大正3年(1914)、今村紫紅(いまむらしこう/1880-1916)らと赤曜会(せきようかい)を結成した。画業に影響与えてくれた今村紫紅の没後(1916/大正5年)は、日本美術院(1898年からの美術団体-院展)で活躍する。大正6年(1917)日本美術院同人。昭和5年(1930)渡欧(大倉喜七郎が、後援したローマ日本美術展の美術使節)。当初は、南画的である作風だが、その後、徹底した写実に移行する。その後は琳派などを研究し、装飾性や画面構成を重視した作風を創り上げた。参考:山種美術館

その速水御舟は、順調な道のりに見えるが、大正元年には、文展(日展)に落選している。ただ、それに加筆して、「萌芽」巽画会展に出品している。それを原三渓(コレクター/実業家/三渓園)が購入し、そのうえ後援者(いわゆるパトロン)となった。また、兄弟子で、今村紫紅の亡くなるまで、その信義(誠実に人の道を守る)に厚く通しており、その後に院展に移っている。昭和10年(1935)に、残念なことに、40歳で天逝(ようせつ)した、病名は、感染症である腸チフスだった。

ご覧いただき、ありがとうございます。
いずれ、御舟の「名樹散椿」のコラムも加えたいと存じております。


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