日本画家-小川芋銭(うせん)明治の鬼才
小川芋銭(おがわうせん、1868-1938)
日本画家・俳人。(本名は小川茂吉)
本多錦吉郎(洋画家)に洋画を学び、その後、特異な日本画の世界を展開した、その日本画は独学だ。
初期は、新聞(明治期の朝野新聞、平民新聞他)に、風刺画や、挿絵等を描いたが、その後、茨城県牛久沼、近くに住み、水辺の風物や河童をテーマに、素朴で、飄逸(ひょういつ:型にはまらずのびのびとした)な、画法だ。院展での日本画や、新聞等の挿絵、風刺画の他、簡略化れた線で描かれた俳画も著名だ。
略歴
1868年(慶応4年:明治元年)、赤坂溜池(江戸)牛久藩邸内で牛久藩士(大目付)の子として生まれる。
時は、幕末から維新政府への激流の只中だ。(この辺りの解釈は、大佛次郎の「天皇の世紀」と伊丹十三監督、として、いずれ)
父親は、廃藩置県に際して、生活の根源としての農業を重視し、元・牛久藩の城中村(現・茨城県牛久市城中町)に移住した。
それ以降は、牛久沼の畔が芋銭の画業のモチーフとなる。そして、その絵画に度々登場する河童の著名だが、その河童には、比喩が込められている気がするのだが・・・
芋銭は、身体的(病弱であったと言われる)に農業には向かず、親戚の洋画家である本多錦吉郎に洋画を学び、独学で特異な日本画の世界を切り開いた。
1908年-(明治41年)、新聞等の挿絵の他にも、「ホトトギス」(俳句雑誌-明治の総合文芸誌)に挿絵・表紙絵を描いた。
1915年(大正4年)、「珊瑚会」(さんごかい:新しい日本画表現)を結成した。メンバーは、川端龍子(りゅうし)、平福百穂(ひゃくすい)、山村耕花、森田恒友他。この頃から、国内の各地へ旅に出た、福島、富山、長野、新潟など各地を巡り、芋銭の視点で、多くの作品を描いている。
1917年(大正6年)、展覧会に出品した水墨画が、横山大観の目に止まり、日本画壇に入るきっかけを得た。日本美術院同人。この時点が日本画家としての着地点だろう。
そして、この牛久沼の畔(河童の伝説もある地だ)では、多くの画業を残している。その作品は、今も地元の方々が、所蔵している物も多いようだ。
そして、「芋銭」とは、「描(え)が売れた銭で、芋が買えればいい」という心境が表れている。
1938年(昭和13年)、牛久の地で死去、71歳だった。
ここで芋銭をまとめる事は出来る筈もないのだが・・・
自然や農民を愛し、そこここの、ごく普通にいる貧しい人々に、寄り添うように心を置いているのだ。そして、社会に対しては、きびしい批評(社会風刺:漫画家ではない)を表象した。 俗中の仙人とも評された。
(参考:牛久市資料/茨城県近代美術館)
(c)小川芋銭/牛久市資料/茨城県近代美術館(今回は、挿絵等を掲載した)
Fig.雲魚亭-小川芋銭記念館:小川芋銭の晩年に建てられた、住まいを兼ねたアトリエだ。
代表作には、院展等の多くの作品群があるが、ただ、私的には、風刺画や、俳画等に、視点を合わせたい人物だ。
一茶「露の世のつゆの身ながらさりながら」、それは、晩年の俳画だ。
Fig.小川芋銭の俳画:「露の世のつゆの身ながらさりながら」一茶
(追記)住井すゑさんから、お話をだいぶ以前に伺った事があった。
そのお話の中で、「すべての人に平等なものは時間だと言う」、言葉が印象的だった。1935年以降、60年間、牛久の小川芋銭宅の近くにお住まいになられて、執筆と農作物自給生活の拠点とされていた。その代表作「橋のない川」はこの地(牛久)で執筆されている。
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