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河の流れを見つめて -ブラームスと変奏の喜び


 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
音楽の魅力の一つに変奏があります。
 
ある主題をリズムや装飾で変化させることで、元の主題から思いがけない美しい構築物ができる。それは、絵画や物語でもできるけど、感覚に直接訴えてくる音楽には、独自の力があります。
 
ブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』(通称ハイドン変奏曲)は、そんな変奏の魅力をじっくり味わえ、しかも退屈することなく、壮麗なフィナーレに人を連れて行く名曲です。






 
この曲はオーケストラによる演奏(作者によるピアノ版もあります)ですが、交響曲とは違い、全一楽章、20分ほどの作品です。
 
木管による合奏で典雅かつアルカイックな主題が始まります。当時はハイドンの作品のメロディとされていましたが、現在の研究では別の作者か、古くからあるコラールの旋律と言われています。
 
やがて弦が対位法的に合わさって少し華やかに。そして、冒頭のメロディが次々に変化していきます。
 
鋭い鳥の鳴き声のような弦の合奏に柔らかく木管が絡んだり、弾んだ弦によって、ざくざくと刻む行進曲風になったり。
 
段々と弦のメロディにもゆったりとした広がりが出てきます。そして秋の青空のように澄み切った空気が広がり、いつの間にか盛り上がって、弦の合奏に木管が絡んで、フィナーレに突入します。
 
このフィナーレに至ると私はいつも「ああ、人生が終わる、こうやって人生が煌めきながら閉じていく」という言葉が頭に浮かびます。
 
宗教曲とも交響曲とも違う、何かを成し遂げた、人間としての達成感のようなものすら感じる、晴れやかな音楽で終わりを迎えるのです。




この晴れやかな印象はどこから来るのか。
 
それはやはり、変奏の巧みさと言えるでしょう。例えばラヴェルの『ボレロ』と比べるとはっきり違いがわかります。
 



『ボレロ』の方は、あのおなじみのメロディをひたすら、違う楽器を沢山登場させて繰り返し、色彩感と音量だけで変化をつける。機械仕掛けの面白さがあります。
 
『ハイドン変奏曲』の方は、楽器の音色自体はかなり限られているところを、メロディや曲想が変化して広がりによって、仄かに自然に色づいていく感触があります。
 
主題の変奏とは、クラシック音楽の肝と言える部分です。例えばベートーヴェンの『運命』は、冒頭のあの「ジャジャジャジャーン」のモチーフが、何度も変わり、組み合わされ、あの圧倒的なラストに到達します。

 そのためには、交響曲という形式が必要です。四楽章形式の交響曲は、「起承転結」の型に沿っており、ラストで盛り上がるようにできている。ミサ曲を始めとする世界各地の宗教曲にも(ラストで爆発しないものを含めて)こうした形式はあります。


 
『ハイドン変奏曲』には、そうした宗教的かつ物語的な型はなく、交響詩のように文学的な主題やイメージもなく、まるで河のように音楽がたゆたいながら、広がっていくのです。
 
勿論、この一楽章形式は、ブラームスの発明でも独創でもありません。でも、伝統的な形式や文学的な物語と違うこうした形式を使えることが、ブラームスと、彼の生きた時代の特徴をよく捉えている気がします。




ブラームスが生きた19世紀後半は、ドイツやオーストリアでも市民階級が発達し、音楽家もパトロンや教会から発注するのではなく、楽譜を出版し、ホールでコンサートを開いて生活する時代です。
 
ブラームス自身、アマチュアの合唱団のために、かなり多くの歌曲や合唱曲を残しており、『ドイツ・レクイエム』では、伝統的なラテン語を使わないでレクイエムを作曲しています。
 
標題音楽を使わず、交響曲や協奏曲がメインの伝統主義者のように言われて、それも間違ってはいませんが、同時に必ずしも昔の形式に囚われない発想もブラームスは持っています。その発露が、ハイドン変奏曲にも表れているように感じます。


若い頃のブラームス


『ハイドン変奏曲』の河のように流れる曲想は、どこか一人の人間の人生が広がっていく様を思わせます。
 
私たちの人生は、必ずしも起承転結のある物語にはあてはまらない。
 
偶然や環境で人生の風景が変わりつつも、それでも自分で選択し、自分の性格に沿った主題を変奏していくことで、様々な人間と結びついて、関係を構築して人生を広げていく。
 
「大河ドラマ」と言われるドラマや物語は、単に河のように長いだけでなく、初めは山の湧き水のようにちっぽけな子供だった主人公が、様々な試練を経て最後は悠久の大河のように、多くの人と手を取り合う太い人生になる物語だからこそ、河に喩えられるのでしょう。
 
『ハイドン変奏曲』が到達する晴れやかさは、そうした大河が持つ美しさのようでもあり、そこには宗教を超え、自分で人生を選択する市民と社会への愛があります。それはきっと、ブラームスの心の中にもあったようにも思えます。
 
この曲は、私たちが見る世界のように途切れずに進む、人生のように美しい曲と言えるのかもしれません。





そんな『ハイドン変奏曲』ですが、意外と演奏が難しいのでは、と思うことがあります。

この音楽には、ゆったりとした雄大さ、力の抑制としなやかさが欲しい。ゆったりしているのと、のろのろしているのは違う。もたもたしていたのが急にフィナーレで盛り上げては興醒めになる。おまけに管楽器の印象的なソロもあるので、コントロールも難しい。
 
味付けが薄めの素材を生かした懐石料理のようなところがあり、ドイツ音楽系の巨匠もそこそこ録音していますが、テンポやソロに微妙な違和感を覚えることが多いです。
 
その中でお薦めしたいのが、クルト・ザンデルリンク指揮、ベルリン交響楽団の演奏。
 



木管がとにかくふくよか。テンポもスムーズでゆったりとしており、木の香りと聖堂の澄んだ空気感があります。
 
そしてフィナーレでは、オペラや交響曲の幕切れに劣らない盛り上がり。それも叫びではなく、静かな喜びが自然と溢れ出るような、光に満ちた光景が待っています。
 
ザンデルリンクはこの曲がお気に入りだったのか、引退コンサートでも演奏しており、そこでは 更に滋味に富んだ生涯最後の名演奏が聞けます。
 
まさにそれは、栄光や勝利とは少し違う、誰もが望むような、多くの人々と結びついた愛によるフィナーレの変奏でもあるのでしょう。是非、体験いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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