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【エッセイ#17】大切な贈り物には形がない -名作メロドラマ映画『たそがれの女心』について

今日はクリスマス。プレゼントを贈ったり、貰ったりする方も多いでしょう。贈り物をもらって嬉しい理由は、贈り物そのものではなく、それをもらったという事実、贈ってくれた相手の真心であることは、良く言われることです。
 
しかし、贈るという行為によって物の意味が変わってくる、ということは、よく考えると恐ろしいことでもあります。物は同じはずなのに贈ることによって意味が変わる。つまり、表面上は何も変わっていないのに、大げさにいえば、ものの見方と人生が変わるということなのですから。
 
それは、時には甘美なものとなり、時には致命的なものにもなり得ます。


  
フランスの名匠マックス=オフュルス監督が1953年に製作した映画『たそがれの女心』は、贈り物を巡って、複雑に人々が揺れ動く、驚異的に繊細なメロドラマの傑作です。
 
舞台は1900年のフランス、パリ。公爵夫人のルイーズは、浪費によってお金に困り、夫に内緒で、夫から昔贈られたイヤリングを宝石屋に売ります。ルイーズはその事実を隠すために、劇場でなくしたふりをします。
 
ところが、新聞騒ぎになった記事を見て、宝石屋が、ルイーズの夫で公爵であり将軍のアンドレの元へ。アンドレは妻に内緒でそれを買い戻し、コンスタンティノープルに発つ愛人のローラに、手切れの贈り物として渡します。そして、そのイヤリングは、外交官で男爵のファブリツィオの元に。ファブリツィオは、ルイーズと運命的に出会い、二人は恋に落ちていきます。
 
書いてみると、偶然続きで慌ただしいように見えますが、オフュルスは流麗に語って、全く違和感なく物語は進みます。


 
ルイーズを演じるのは、ダニエル=ダリュー。均整の取れた顔と切れ長の眉で、両性的な感じもありつつ、当時三十代後半で、貴婦人の色香が匂い立つような美しさです。アンドレを演じるのはシャルル=ボワイエ。どこか暗く、気位も高いのに、軍人としての有能さとユーモアを感じさせるダンディズムがあります。このコンビは、戦前映画『うたかたの恋』で共演歴があり、日本でも大人気でした。
 
ファブリツィオを演じるのは、なんと、『自転車泥棒』等イタリアのネオレアリスモ映画の名作を監督したヴィットリオ=デ・シーカ。俳優としても一流で、白髪交じりで少し弱さを感じさせる甘い顔立ちと、優雅な立ち居振る舞いが、素晴らしいです。

左:アンドレ(シャルル=ボワイエ)
右:ルイーズ(ダニエル=ダリュー)

 
アンドレとルイーズの仲が完全に冷え切っているのは、イヤリングを「なくした」ルイーズへの、アンドレの慇懃でチクチクと言葉で刺すような会話で、全て察せるのが凄い。おそらく、ルイーズが浪費しているのは、夫との愛のない生活からの孤独からだということも、台詞が無くても分かります。
 
そして、ファブリツィオとルイーズが恋に落ちるのは、何度も何度も社交界のダンスパーティーで踊る描写だけで、描き切る。この過程が陶酔的で素晴らしい。

ゆったりと横に移動するカメラと共に、二人の言動が日に日に変わります。そして、とうとう、ずっと踊り続けて、演奏楽団が疲れ果てて帰ってしまうまで、二人は離れられなくなります(この「楽団が踊り続けるカップルに怒って先に帰ってしまう」描写は、オフュルスの旧作で大傑作『忘れじの面影』にも出てきます)。


 
さて、イヤリングに戻りましょう。予想はつくと思いますが、ルイーズの元に、イヤリングが戻ってきます。すると、イヤリングの意味が変わってしまいます。ルイーズにとって、愛するファブリツィオからの贈り物になり、会えない時間の、彼の身代わりのようなものになって、肌身離せなくなってしまいます。
 
ここで重要なのは、人物の間で、この「贈り物」に対する情報の齟齬があること。ルイーズは、これを劇場で無くしたままだと夫が信じていると思いこんでいます。アンドレは、それが嘘だと知っていますが、イヤリングはコンスタンティノープルの元愛人の元にある、と思いこんでいます。そして、ファブリツィオはそんないきさつを何も知りません。
 
この情報の齟齬から、後半一気に物語は動きます。そして、イヤリングは何度も場所を変えて動いていく。その度に、ルイーズとアンドレにとっての、ある種の執着になっていくのです。そして、物語はクライマックスへと、なだれ込んでいくことになります。


 
このイヤリングとは一体何の象徴なのか。口にするのは野暮ではありますが、大きく言えば、それは、「愛」であるとはいえます。そもそも、これは二人の結婚祝いにアンドレからルイーズに贈られたものでした。その愛がなくなって、ルイーズは手放す。ですが、その行為によって、アンドレはルイーズが嘘をついていることを知り、愛人の手切れとして、遠ざける。
 
愛は二人の間から消えます。しかし、ファブリツィオによって、イヤリングと愛は舞い戻ります。今度のイヤリングと愛は、ルイーズにとって今までとは別のもの、彼女にとってかけがえのないものとなります。
 
そして、主要登場人物の元に、イヤリングと愛が戻った後半の展開は壮絶で、もはや、イヤリング自体には何の意味もありません。イヤリングを贈る、相手に見せるという行為が、彼らの感情を刺し、心を壊していくのです。

イヤリングを「取り戻す」
ルイーズ

 
ここでのイヤリングはいわゆる「マクガフィン」のようなものになっています。マクガフィンとは、サスペンス映画の巨匠ヒッチコックが好んで使った用語で、サスペンスやスリラー等で、ドラマを組み立てる際のキーファクターとなる事物です。
 
例えば、彼の映画『汚名』では、ウラニウムを巡ってスパイたちが暗躍することになりますが、これの中身については何の説明もありません。それどころか、ヒッチコックは製作段階で、ダイヤモンドにしてもいいよ、と言っていたそうです。つまり、マクガフィンとは、サスペンスや物語を盛り上げるための、中身は交換可能な装置であって、逆に言うと、どうでもよい中身でなければ成り立たないものです。
 
『たそがれの女心』でのイヤリングがマクガフィンとすれば、つまりは、登場人物たちにとって、一番大切な愛の中身が何なのか分からなくなっているということです。そして、愛から派生した、執着や自尊心、世間体といったものに振り回されているということも意味しています。


 
そもそも、『たそがれの女心』は、美しい邦題ですが、原題は『Madame de・・・』と言います。「某夫人」という不思議なタイトル。ルイーズは劇中、夫に名前を呼ばれることがあっても、姓の方が分からないのです。それはつまり、アンドレも最後まで姓が分からないということ。
 
色々と解釈が出来そうですが、この二人が、自分が何者であるかを見失っている状態だとも言えます。それはまさに、彼らが「贈り物」に振り回され続けていることからも分かります。また、ルイーズ自身が劇中で言うように、始終嘘をつき続けていることにも、それは表れています。そうした彼女たちの心の状態を、「贈り物」は残酷に露呈させます。
 
最後、イヤリングは、登場人物たちの行く末を見届けたのち、あまりにも意外な場所に収まります。これもまた様々な解釈が可能ですが、それは、人間の愛を破壊するエゴを、ある種浄化している、とも言えるでしょう。


 
私たちは、つい、自分が何を求めているのか、忘れがちになります。結局、嘘をつき続けていた彼らが求めていたのは、本当は、イヤリングに彼らが投影していた、モノ以上の何かでした。

大きな言葉で言えば「愛」と呼ばれる何か。それは、決して物体ではない。本当に大切な贈り物とは、そういう、形のない何かであり、だからこそ、大切なのは、贈り物の中身ではなく、心なのかもしれませんね。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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