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駆け巡る心地よさ -モーツァルト『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の魅力


 
 
【金曜日は音楽の日】
 
良く知られている名曲というのは、様々な要因があって有名になっています。
 
モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は、天才の畢生の名曲でありつつ、なぜ名曲になったのか意外と説明の難しい、不思議な作品です。




このタイトルの直訳は「小さな夜の音楽」。いわゆるセレナーデであり、管楽器を含まない弦楽のみの小編成オーケストラで演奏されます。
 



第一楽章の始まりは、様々なジングルになった有名な旋律。使い古された感もありますが、優れた演奏で聴けば、その軽やかな疾走感が他には得難いのは間違いありません。囁くようなパートとの緩急が素晴らしい。
 
第二楽章は、夜のとばりの静けさに満ちたような、美しい緩徐楽章。憧れを秘めた溜息のようにゆったりと進み、途中で少し曇ったような不安と交錯するのが、その美しさを高めています。
 
第三楽章はオーストリアの民族音楽に基づいて再び活気づく、短いけど充実した楽章。特に中間部は、ウィーン情緒が溢れる、糖蜜のような甘い旋律です。
 
第四楽章は細かく刻む弦の疾走から、可憐な旋律が絡まり合い、一気に高まってフィナーレを迎えます。
 
四楽章全てにキャッチーで印象的な旋律があり、構成も丁寧で、転調も自然に、最後までだれずに続く。第一楽章の冒頭しか聞いたことがない方は、是非通して聴いてほしい、奇跡的な名曲です。





しかしこの曲の出自は謎に包まれています。
 
初演がいつなのか、そもそも誰の依頼で、何の目的で書かれたのかが、全く分からない。ただ分かっているのは、モーツァルト本人が自身の作品目録に1787年8月に完成したと書いていることだけです。
 
その年の5月に父親のレオポルトが亡くなっています。子供の頃から二人三脚で各国への演奏旅行に行脚し(時には疎ましく思いつつも)強い絆で結ばれていた父の死に、モーツァルトが強いショックを受けたのは、間違いありません。
 
この曲でよく言われるのが『音楽の冗談』、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』と恐らくは同時並行に創られていたということ。
 
『音楽の冗談』は、田舎音楽師たちのへたくそな曲や演奏を、極上の音響で再現するという、グロテスクかつ空虚な曲です。

転調が下手過ぎて退屈に繰り返したり、曲のいいところで弦が切れたり、クライマックスで指使いをミスして、すさまじい不協和音で終わるところまで再現し、殆ど世界が壊れてしまったような、とんでもない曲になっています。これは田舎楽師たちを嫌っていた父への屈折したオマージュとも言えます。



そして『ドン・ジョヴァンニ』で放蕩三昧の主人公を地獄に落とす黒衣の男に、父の影を見るのも、良く言われる話。
 



これらと『アイネ・クライネ~』は同時期なわけです。『音楽の冗談』と『ドン・ジョヴァンニ』で、めちゃくちゃに破壊された秩序を『アイネ・クライネ~』で回復するといったことが言われたりもしますが、寧ろ、これらと同居していることに意義があるように思えます。




つまり、この華やか且つ爽やかな曲は、ロココのギャラント(優雅)な形式の頂点であると同時に、そこからはみ出したものを持っているように思えます。『音楽の冗談』や『ドン・ジョヴァンニ』と同様に。
 
貴族の夜会で演奏されるような爽やかな曲であり、かつ演奏のしやすさと口ずさめるキャッチーさによって、もっと身近な民衆が聞いても楽しめるようになっています。




モーツァルトはこの年の1月にプラハから招待を受けて旅行すると、自身のオペラ『フィガロの結婚』が大ヒットして市民に大人気になっているのを目の当たりにしています。
 
道行く人の口笛すら『フィガロ』の旋律だったと、嬉しそうに手紙に書いているほどで、もっと民衆が喜んで受け入れてくれるような方向性を目指す考えが、徐々に頭の片隅に芽生えてきたように思えます。
 
宮廷で演奏されるような華やかな曲とは少し違う、もっと親密で、若々しくて退屈させない、しかも気品に満ちた曲。貴族やパトロンの依頼ではないからこそ、多くの人が親しんで口ずさみたくなるような、簡素で優美な曲ができるはず。
 
モーツァルトの曲の中でも淀みのない、古典的な美の中から、民謡のような親しみやすさが香るこの名曲には、最晩年の『魔笛』まで繋がる、そんな思いも隠れているように思えます。決して父の死への悲嘆だけではない。創り手が何かを創る時は、様々な感情や意図が交錯するものでしょう。

没後すぐにモーツァルトの中でも屈指の人気曲になったことからも、その意図が伺える気がするのです。





この曲の名盤について考えると、例えばフルトヴェングラーのベートーヴェン『第九』とか、ワルターのベートーヴェン『田園』のように、リファレンスになるような決定的名盤はあまりないように感じます。そもそも祭壇に恭しく祀り上げられるような曲でもないわけで。
 
とはいえ演奏は沢山あるだろうなあと思いつつサブスクで調べると、こんなにもあるのかというレベルで出てくること。19世紀からの人気曲のゆえんでしょう。
 
低音がバリバリ響く、勇壮で面妖なフルトヴェングラー盤とか、カラヤンの落ち着き払って低体温なレベルの、キラキラな演奏とか。晩年のベームとウィーンフィルの演奏は人気のようですが、ちょっと粘っこくテンポが遅くて、交響曲だと素晴らしいけど『アイネ・クライネ~』にはもう少し機動性を求めたくなります。
 
私が昔聴いて印象に残っていたネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団のユニヴァ―サル盤(87年フィリップス原盤)は、癖のない自然な抑揚と闊達さ、透明な音響でお薦めできます。
 


私は普段この指揮者の演奏に親しんでいるとは言えないけど、『アイネ・クライネ~』に関しては、その中庸さが曲の良さを見事に引き出しています。マリナーは映画『アマデウス』の音楽指導・指揮者でもあります。
 
モーツァルトが生きた時代の演奏を味わいたいという方には、トン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック管弦楽団演奏のエラート盤がお薦め。
 



モーツァルト時代の低いピッチに合わせた少人数の親密な演奏は、驚くほど典雅で、同時にバロックの古風な色合いから脱して、甘い焼き菓子のようなウィーンの庶民的な香りを濃密に醸しています。
 
この作品がバロック的な場所から抜けた、新しい時代の息吹を持つ曲であることを、この演奏は見事に示しているように思えます。そんなモダンな美しさからも、永遠に新鮮な若々しい名曲のように感じるのです。
 
『フィガロ』を口ずさんだプラハ市民のように、軽く口ずさむだけでもその心地よさが身体を駆け巡る、軽やかな音楽。聞き慣れた旋律も、そんな風に考えてみると、新たな発見があるかもしれません。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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