琥珀の中の夢 -『ヒッチコックとストーリーボード』の魅力
何かの作品が好きな人なら、その「メイキング」も集めたくなるのは、よくあることでしょう。名盤のアウトテイクやレア音源満載の記念盤や、名画の下絵になったスケッチ、アイドルのライブの舞台裏映像まで、魅惑が生まれる過程を知りたいという欲望は尽きないものです。
先ごろフィルムアート社から翻訳が出た『ヒッチコックとストーリーボード』は、サスペンス映画の巨匠の制作過程を見られるだけでなく、映画そのものの「生」の状態まで見ている感覚を味わえる、素晴らしい本です。
ストーリーボードというのは、漫画の絵コンテのようなもので、撮影のカット割りから、構図、画角の組み合わせに至るまでの一連の流れを絵にして並べたもの。
現代の映画でも、特にCGを使う場合は、どのようなカットを撮影・作成するかを事前に考える必要があるため、必須となります。俳優を重視する映画監督は使わない場合も多いのですが、ヒッチコックは、ストーリーボードを重視し、ほぼ全編作成して撮影に臨んでいました。
『ヒッチコックとストーリーボード』は、その中でも、1935年の『三十九夜』から1966年の『引き裂かれたカーテン』に至るまで全盛期の傑作・秀作9作品を取り上げ、シーンのストーリーボードと、作品に関わったデザイナー、美術監督の証言をまとめた本です。
多分一番有名なのは、デザイナーのソール・バスが手掛けた『サイコ』のシャワーシーンでしょう。厳しい規制をくぐるために、文字通り全カット事前に作り、「何が起こっているか」を残酷描写抜きでシャープに示した、映画史上に残るシーンです。
バスによる力強い描線は素晴らしい。そして、映画に残っていないカットはありつつも、ヒロインのポーズやアップの構図を含めて、総体的にはヒッチコックが驚くほど忠実にその素描を再現しているのが分かります。
私が好きなのは『レベッカ』や『疑惑の影』を担当したドロシア・ホルトによる、美しい水彩画。
後にウォルト・ディズニーの元でも働いたという彼女の描いた瀟洒な部屋や、あの「マンダレイ」の屋敷は、リアルでありながら、御伽噺の雰囲気があります。
そして、こんな証言も。
こうした部分から、50年代のハリウッドを支えていた職人たちの熱気が伝わってきます。この本が好きなのは、そうした職人たちの証言、ヒッチコックとの信頼と誇りに満ちたやりとりもふんだんに載っているからです。
それは、ヒッチコックとの会話だけではありません。名作『めまい』を担当した美術監督のヘンリー・バムステッドは、主人公スコティの部屋を造る際、まだ駆け出しの美術監督だった頃、主人公の部屋を造っていた時に、師匠だったハンス・ドライヤーに指摘されたことを回想します。
ちなみに、バムステッドは1970年代以降『荒野のストレンジャー』から『父親たちの星条旗』に至るまでの、クリント・イーストウッドのほぼ全作を手掛ける名美術監督。
ハンス・ドライヤーは、戦前ドイツの撮影所ウーファで才能を開花させ、エルンスト・ルビッチに招かれてハリウッド入り。1940~50年代には、ルビッチの『極楽特急』、プレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』、ワイルダーの『サンセット大通り』等の名作を手掛け、パラマウント社映画の豪華なルックを創りあげた、映画史上有数の美術監督。
また、ヒッチコックのイギリス時代の『三十九夜』を手掛け、繊細なスケッチがこの本に載っているオスカー・ヴェルンドルフも、やはりドイツのウーファで1920年代にムルナウ『吸血鬼ノスフェラトゥ』や、バプスト『パンドラの箱』等の映画史上に残る名作を担当しています。
ヒッチコックの名作には、こうした映画の過去と未来が含まれており、そんな職人たちが創った映画の息吹がふんだんに香ってくる。それがこの本を、単にストーリーボードを載せるだけの本とは違う、特別な本にしているのです。
ヒッチコックがストーリーボード通りに撮影することには、批判の目もあります。
撮影現場でのインスピレーションや俳優の自由を奪い、自分の思い通りに動かすだけだ、と。実際、ヒッチコックは俳優の「心理的な」演技を嫌い、そんな俳優は「ロバ以下の野郎」だと公言していました。そして、ストーリーボード通りに撮って無駄なカットを撮らないことは、プロデューサーによる編集での介入を防ぐ手立てにもなりました。
しかし、この本を見ていると、もう少し別の考えも浮かんできます。
ヒッチコックが周到にストーリーボードを作成したのは、ハリウッドの優れた職人たちの叡智を最大限に結晶化させる意味もあったのではないか。
この本に出てくる美術監督(プロダクション・デザイナー)たちは、多くが建築家ではなく、イラストレーター出身です。
つまり、どのようなイメージを創りたいかをまず形にできて、カメラのレンズの知識や、セット作成の知識(ただの建物ではなく、どのドアや壁を取り外せばカメラを置けて、どのように撮影できるかまで計算できないといけません)も吸収し、セットを創ることができた。
そして、ヒッチコックは、その呼吸も全て理解したうえで、作品の全責任を負う「監督」となって、何を取り入れるかを決断します。
ストーリーボードの時点で、物語と美術、編集という映画の三大要素は、多くの才能ある人と議論し、アイデアを磨き上げている。現場で即興など取り入れては、そうしたものを曇らせてしまう。
ヒッチコックの撮影現場は、殆ど無駄なテイクを撮らず計画通りに撮影を進めるため、9時から17時の定時労働が常でした。そうすることで、撮影クルーや俳優の負担を減らし、彼らの力を最大限引き出す意図もあったはずです。
ヒッチコックはそうした「集団芸術」の要諦をよく分かっており、そして、彼がいた50年代ハリウッドは、恐らくは彼の意図以上に映画を輝かせる力量を持ったスタッフたちが揃っていました。
500年後にまだ人類が生き延びているとしたら、20世紀の映画は、フィルムという原初的な装置を使った、映像に物語が付随する、ごく初期の映像文化と言われるでしょう。そんな文化の中でも、集団製作による幸福感あふれる時代の芸術が、ヒッチコックの作品と言えるのかもしれません。
この本を読んでいると、映画の成立過程を追うというより、逆に、映画の破片がそのままスケッチされているような印象を覚えます。
それはまるで、映画の物語がバラバラになって、化石となってその骨格だけが闇から照らされたような感覚です。
あるいはそれは、映画の琥珀。琥珀は太古の樹液が固まって、そこに植物等の化石が保存された宝石です。映画の夢がどろっと溶けて黒と白のスケッチの中に固まり、記憶の中の夢の物語が、眠るように保存されている。
多分そうした夢の破片に浸れるがゆえに、「メイキング」は美しいのでしょう。ヒッチコックの映画を観て、そして、この本を読んでそんな映画の夢に浸るのも、素晴らしい体験のように思えるのです。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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