燃える夜の残り香 -キップ・ハンラハンの音楽の魅惑
【金曜日は音楽の日】
夜には火が似合います。
野の焚き火、いにしえのかがり火、祭壇のロウソク。そして、夜の繁華街の灯。
普段生物が活動する太陽の光がないからこそ、火の光と熱が、異界に連れていく導きのような存在になる。
そんな夜の炎のような音楽で私が思い浮かぶのは、キップ・ハンラハンの音楽です。
それは、ダークな夜の熱のトーンに貫かれ、都会の夜の欲望と愛が、クールに燃え上がる音楽です。
キップ・ハンラハンは、ミュージシャンで、同時に、プロデューサーであり、ユニークなレーベルオーナーでもあります。
1954年、ニューヨークのブロンクス生まれ。父方はアイルランド移民、母方はユダヤ人の血をひいています。
音楽と映画を愛好し、ジャン・リュック・ゴダールの現場に参加したり、ハイチにパーカッションを習いに行ったりして音楽を吸収。
1981年、インディレーベル「アメリカン・クラーヴェ」を設立します。そして、自らのアルバム『クー・ド・テット』を発表。その後もレーベルを通し、旺盛に活動しています。
キップの音楽は、一言でいえば、ジャズやラテンがハイブリッドになった、マルチカルチュラルな音楽です。
まず、静寂の中から、しなやかなパーカッションが響き、折り重なって広がります。
重くたおやかなベースと、緩やかなギターや柔らかいサックス、時にはすすり泣きのようなヴァイオリンが絡みます。エキゾチックな旋律の中から、湿った熱を帯びた、深い闇が広がっていくかのようです。
そして、ある時は呟き、ある時は音を撫でるように伸びるヴォーカルが歌うのは、苛烈なまでの不服従と、男と女の、性と愛慾にまみれた妄執です。
彼の音楽の特徴は、ファースト・アルバム『クー・ド・テット』で、ほぼ完成されています。
フランス語で『電のような一撃』を表すタイトルのこのアルバム。マイルス・デイヴィスを手掛けた名プロデューサー、テオ・マセロや、前衛ギタリストのフレッド・フリス、後にプロデューサーとして大成するビル・ラズウェルが参加しています。
当時はまだノー・ウェイヴなへたうまギタリストだったアート・リンゼイが、あのギュインギュインというギターを弾いているのも、嬉しいところ。
そして、70年代以降の最高のジャズコンポーザーの一人で、昨年亡くなったカーラ・ブレイも参加。マルグリット・デュラスの映画の歌『インディア・ソング』のカバーで、何とヴォーカルを披露しています。
場末の紫煙に満ちたピアノやサックスの中から、性も生も超越した、老婆のようなどす黒い声を聞かせるカーラ。愛とその忘却を歌いアルバムのトーンを決定づけています。
夜の炎は、消えて熱を残す。キップの音楽は、忘却のための音楽のように思えます。
キップがプロデュースした、アストル・ピアソラの『タンゴ・ゼロ・アワー』では、深く、低い響きのバンドネオンによる、艶やかなタンゴが、真夜中のうらぶれたストリートの空気を纏っています。
その極彩色の音は、零れると同時に、熱で闇に消えていき、湿ったその香りだけが残る。
メロディーもイメージも、忘却の中に沈み込んでいくようです。
彼がプロデュースした中でもお薦めしたいのは、シルヴァーナ・デリュージの『YO!』。
ピアソラと同じタンゴの歌姫であり、やるせない孤独なヴァイオリンの旋律を伴い、凛として同時にほろほろと崩れるような美しい歌声を響かせるその様は、最早、冥界から響いてくる、黄泉の女神の溜息のようです。
キップはプロデュースワークも自身のソロアルバムも多く、近年も『クレッセント・ムーン・ウォーニング』を発表して、その健在ぶりを示しましたが、実のところ、その中身はどんな作品でも大きな変化はありません。
詩の朗読を交えたり、無声映画の音楽を使ったり、『千夜一夜物語』をコンセプトにしたりしても、基本的には、湿ったパーカッションと、どこか両性具有的な歌声のヴォーカルによる、愛慾と忘却の歌となっています。
それはつまり、彼は新しさを求めているのではなく、ある種の夜のトーンを、常に追求しているのでしょう。
愛の一夜、夜の匂いは、決して一つとして同じものはなく、私たちは、繰り返しその中に飛び込んでは、欲望の中で転げ回り、忘却していく。
そんな、私たちの傍にある異界としての夜を何度も描くため、彼は音楽を創り続けているのでしょう。
最後に、彼の曲の中でも特に私の好きな『You Play with the Night with Your Fingertips』(アルバム『At Home In Anger』収録)の歌詞を一部引用します。
彼の音楽を象徴し、深く表している詩と曲だと思っています。是非一度、その魅惑の夜の音楽を体験いただければと思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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