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黄金に溶ける色彩 -尾形光琳の屏風絵を巡る随想


 
 
【月曜日は絵画の日】
 
 
金は、派手でありつつ、その輝きで人類を太古から魅了しています。
 
私は金を使った豪奢な絵画は好きです。といっても、それは結構少なく、西洋であれば、中世のイコンや、近代絵画ではクリムトぐらいのものでしょうか。
 
そして日本では、尾形光琳をはじめとする「琳派」の屏風絵に全面的に取り入れられています。それは派手でありつつも流麗で繊細な、なかなか得難い表現になっています。


『竹梅図屏風』
東京国立博物館蔵




尾形光琳は1658年、京都生まれ。裕福な呉服商の家の次男であり、風流人として、小さい頃から茶道や能楽を自分で嗜むほど、文化に精通していました。もっとも、ひたすら遊び惚けて、実家の店が傾きかけた30代前半に、ようやく絵師に専念することになります。
 
特に大きかったのは、1704年からの、パトロンの一人の有力役人、中村内蔵助について行った、5年にもわたる江戸滞在。
 
窮屈な大名仕えに閉口しつつも、雪舟の水墨画や狩野探幽の写生画を再研究し、俵屋宗達の屏風絵を模写し、流行の浮世絵の美人画まで手を染めて、試行錯誤を繰り返します。
 
そして重要なのは、多くの大名や豪商との交流による売り込み。

江戸から京都に戻った後、新井白石による銀座鋳造の粛清により内蔵助は没落しますが、光琳が次々に屏風絵の大作・名作を残せたのは、江戸滞在期に繋がりのあった大名から、多くの発注があったからでした。1716年に59歳で亡くなっています。


『太公望図』
京都国立博物館蔵




光琳の屏風絵は、俵屋宗達の屏風絵を発展させたものと言えます。
 

俵屋宗達『風神雷神図屏風』
建仁寺蔵


宗達の有名な『風神雷神図屛風』をかなり忠実に再現した屏風絵も残っています。金箔を用いた派手な屏風の余白を生かして、対象を微妙に中心からずらす構図や、金色の上に鮮やかな色彩の造形を載せる手腕は、宗達の芸の正当な後継と言って良いでしょう。
 
しかし、光琳の作品は、宗達よりも繊細で、幽玄味があります。

代表作『紅白梅図屏風』のように、不思議な文様の川の流れ、枯淡とした木々の表現が、二枚に渡る屏風で中心をもたずに大胆に配置される。どこか山水画のようなしなやかさを持ちつつ、事物が膨らんだ柔らかさ。
 

『紅白梅図屏風』
MOA美術館蔵


それは、山水画から浮世絵まであらゆる芸を吸収した光琳の、ハイブリッドな質感と言えるかもしれません。
 
宗達の主な発注主は、安土桃山時代の京や大阪の商人であり、光琳のそれは、江戸中期の大名たちでした。
 
宗達の芸術は、まだ天下統一に向かう最中、力をつけて来た町人たちの、粋と力強さが同居していたのに対し、光琳の芸術は、安定した上流階級が楽しむ、過去の美を縦横無尽に組みあわせた、優美な文化の結晶となったとも言えるのでしょう。


『風神雷神図屏風』
東京国立博物館蔵
光琳による宗達の
オマージュというよりほぼ再現




個人的に、光琳の屏風絵で思い出すのは、『家事と城砦』や『女と男と帝国』等、ドゥルーズやフーコーの思想に影響を受けた特異な名著で知られる、美学者の丹生谷貴志氏のエッセイだったりします。
 
今文章が手元にないのでうろ覚えなのですが、ある日丹生谷氏は、友人に誘われ、あまり好きではない光琳の屏風絵を美術館に観に行きます。
 
ガラスで区切られた絵を目の前で見ていた時、突然館内が停電で真っ暗になりました。すると丹生谷氏は、つい反射的にポケットからライターを取り出して点けてしまいます。
 
たちまち数人の警備員に取り押さえられてしまった(保安上当然です)わけですが、その刹那、一筋の炎で映った屏風絵は、闇の中から昏い黄金色と植物の色彩が仄かに浮かび上がる凄絶な美しさであり、これに関しては、丹生谷氏を連れてきたことを後悔した友人たちも、感謝してくれたとのことです。




そう考えてみると、金色の屏風絵とは本来、美術館の明るい照明ではなく、薄暗い中世の家屋で見るべきものだったと気付きます。
 
電気などなく、夜は蝋燭や行灯で仄かに照らされる金の屏風絵。細部は闇に溶け込んで見えなくなる代わりに、ぼんやりと鈍く輝く金箔の光の中から、鮮やかな色彩の塊が、夢のような艶やかさで浮かんでくる。
 
私たちは現在、金箔を使った絵を派手とか、成金趣味のように感じてしまいます。

しかしそれは、明るい照明に照らされるからそう思うのであり、本来、金箔は、夜闇の中の微かな光でも沈み込むことのない、つややかな輝きを持っているゆえに、絵全体にニスを塗るような、控えめでもしっかりとした効果を持つものなのでしょう。


『孔雀立葵図屛風』
アーティゾン美術館蔵




勿論、宗達や光琳は、そうした効果を計算して構図や色彩を設計しているはずです。
 
光琳の『燕子花図屏風』の一見荒々しい筆致で並ぶ濃い緑と紫の燕子花は、昼間の薄暗い日光では鮮やかな色彩を広げつつ、蝋燭の赤い光で夜照らされれば、赤の補色の緑が黒々と膨らんで、ほの白い金箔の輝きの中で生い茂るような、夢幻的な効果を露わにするでしょう。


『燕子花図屏風』(部分)
根津美術館蔵


美術館と違って、昼も夜も所有者は絵を眺められるのですから、その効果は持つ者だけが味わえる特権です。
 
今の美術館に収められた状態を光琳たちが観たら、こんな明るい光の中で見るのは自分たちの意図とは違う、と失望してしまうかもしれません。




谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を持ち出すまでもなく、こうしたことは、洋の東西を問わない絵画全般にも言えます。私たちは快適で明度を一定に保たれた美術館の中で昔の絵画を見ることに馴れていますが、その多くは電球のない時代に描かれているのですから。
 
絵画を修復して、イメージ以上に色鮮やかだったことに驚くのは近年よくありますが、電球のない時代に、日光や蠟燭の光でそれらの鮮やかな色彩を見ることは、修復された絵画を美術館で見ることとはまた違った体験ではないでしょうか。


『槙楓図屏風』
東京藝術大学蔵


勿論、絵画の修復が悪いと言っているのではありません。絵画に限らず、芸術作品は、時代によって鑑賞形態も、享受する人間の意識も変わり、それによって意味も変わってくるということです。

例えば、映画館で封切りで観る映画と、ビデオを借りて低画質で観る映画と、クリアな画質の配信サイトをクリックして観る映画が、同じ作品でも体験としては変わるように。




古代文明の財宝も、金や宝石をふんだんに使って悪趣味に思えますが、夕闇や松明を着けた神殿の中で妖しく光る様を想像すれば、その光に多くの人が魅せられた意味も見えるはずです。

近代になってシャネル等がフェイクの宝石も創るようになったのは、電球の光が出てきて、わずかな光を反射できる力の必要性が薄れてきたからでしょう。
 
歴史や作品の背景を知るというのは、今とは違う世界に思いを馳せ、美を味わうということでもあります。
 
光琳が描いた時代の暗闇や光を思い浮かべれば、傷がついて、くすんだ埃の着いた金箔の屏風も、たちまちその妖しさを取り戻して、あらゆる芸術を黄金色に溶かし込んだ光琳の天才性も、見えてくるように思えるのです。
 
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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