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祝祭の高揚を彩る -ヘンデルの音楽を巡る随想


 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
以前も書いたことがありますが、モーツァルトやベートーヴェンが出てくる前のクラシック音楽の主流は、言ってみれば王や貴族の日々のBGMでした。宗教曲だって神を讃えるためのBGMであり、作曲家とは職人でした。
 
ヘンデルは、そんな職人でも、活躍した当時から最高の名声を博した作曲家です。「ハレルヤ・コーラス」で有名ですが、現代から見ても、色々と面白い作曲家に思えます。




ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、1685年、現在のドイツ・ザクセン州、当時は神聖ローマ帝国生まれ。幼い頃から音楽に才能を示すも、父親が亡くなり、法律家を目指して大学で法学を学びます。
 

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル


その傍らオルガン奏者としてもキャリアを積み、ハンブルクに出て、劇場で演奏しながら、オペラ作曲家としてデビュー。
 
その後イタリア各地を訪れ、フィレンツェやヴェネツィアでオペラで成功をおさめます。ハノーファーの宮廷楽長になるも、ロンドンから招待を受けて、大成功をおさめ、そのまま居座ってしまいます。

するとハノーファー選帝侯が、ジョージ1世としてイギリス国王になることに。渡英した彼とも良好な関係を持ち、テムズ河での水遊びのために名作『水上の音楽』が書かれています。
 
その後、オラトリオもてがけ、晩年には「ハレルヤ・コーラス」が入った大作『メサイア』も作曲しています。1759年、74歳で死去しています。





ヘンデルの音楽の特徴は、一言で言えば華やかな高揚感です。

『メサイア』や『水上の音楽』で展開される、分かりやすい旋律の合奏による晴れやかな感覚。



派手なことは確かだけど、軽薄ではなく、かといって厳めしい重苦しさもない。それがつまり、華やかということなのでしょう。

親しみやすさの中に、背筋が伸びるような誇りと活力に満ち溢れ、プライベートな密やかさや後ろ暗さとは別の感触。

その意味で、これは「王のための音楽」という感じがします。貴族の憩いを作るでもなく、神の栄光を称えるでもなく、王が自分の威厳と力を示すための音楽です。

王は神と違って、目の前にいて、多くの人と同じ姿をしている。それ故に、特別な力があることを、示さないといけない。ヘンデルの音楽が持つ華やかさは、人の警戒を解き、王の力を誇示する華やかな祝祭空間を創るような魅力に満ち溢れているように思えます。





ヘンデルを、同時代の巨匠、バッハと比べてみると、分かりやすいかもしれません。
 
バッハもヘンデルもドイツ生まれで、貴族、王、教会の三つにまたがって仕事をし、楽長のポストを得ようと奮闘したり、曲の発注を受けたりしています。両者オルガンの名手で複数の楽器を演奏できるからか、大作から小品まで編曲は自由自在。そして何より、優れたメロディメーカーで、印象的な旋律を多く残している。
 
違う点としては、バッハは、当時としてはかなり時代遅れだったフーガを多用し、重い通奏低音に多様な旋律が絡む、巨大な伽藍のような音楽を創りあげたこと。『マタイ受難曲』、『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』等、悲劇的に張り詰めた空気感を持つ、鞭うつような厳粛な曲。
 
と同時に、コーヒー大好きな娘と父をユーモラスに描く『コーヒー・カンタータ』や、妻や子供たちのための練習曲等、暖かな雰囲気の曲も多いです。
 
地に根を這って、宗教と家庭、荘厳と親密の両極を同等に描く音楽を、バッハは生涯創り続けました。




ヘンデルは、バッハほど通奏低音に縛られず、音がゆったりと踊ります。『水上の音楽』、『王宮の花火のための音楽』等タイトルが示すように、音楽自体が華やかに宙に飛び散っては消える、根無し草の泡のような儚さがある。
 
どんなに暗い曲でも、落ち込ませるほど悲劇の色に染め上げたりしない。歌劇『セルセ』の有名なアリア『オンブラ・マイ・フ』のように、木陰でひと時もの思いに耽っているようで、大声で救いを求めたり泣き叫んだりしない。
 



そうしたありようも、王のための音楽という気がします。王にプライベートはなく、あらゆる場所で、人の目に曝されて、気品を持たなければならない。ヘンデルの音楽は、バッハほど天上界と家庭に分かれてはいません。
 
「力」あるいは「良き権力者」が持つ、華やかさと一抹の寂しさを音楽が体現しているがゆえに、多くの権力者や、そうした力のふくよかな香りを味わいたい庶民に大人気になったのでしょう。
 


バッハが、堅実な家庭生活と宗教の折り合いをつけたプロテスタントの牙城だった北ドイツで終生活動したのに対し、国教会という、王が神の代理人のような力を持つ宗教の下で、庶民が自由に活動して力をつけていたイギリスでヘンデルが受け入れられたのは頷けます。

音楽の特性は、作曲家が活躍する場所をも、選んでいくのでしょう。




現在ではあまり認識されていませんが、ヘンデルが充実期に力を入れたのは、オペラでした。それも『カルメン』や『椿姫』といった19世紀以降のオペラとは違う、神話を題材にした、いわば祝典劇。
 
最近になってリバイバルも増えて来たものの、カストラート(去勢歌手)による超絶技巧も必要としたため、再現が難しく、近代になると顧みられることは少なくなりました。その代わりに、ある種の儀式や儀礼に、ヘンデル的なものが好まれるようになったのは、大変興味深い。
 
『ハレルヤ・コーラス』や、やはりこれもオラトリオの一部だった『見よ、勇者は帰る』。そして、サッカーの最高峰を決めるUEFAチャンピオンズリーグのアンセムは、ヘンデルの曲を基にしているとのこと。
 


いずれも宗教的な苦悩が薄く、覚えやすく、誰もが高揚できるような華やかさに満ちた曲です。

バッハの苦悩や厳粛さ、19世紀オペラのメロドラマ的な涙が、コンサート・ホールや家庭の場に浸透し、ヘンデルの音楽が持つ、神と王の祝祭の空気を徐々に駆逐していった。
 
それはつまり、市民が力を付ける過程でもあったわけで、そんな中、かつての王が持っていた無形の力を思い出させるような儀式に、ヘンデルの音楽が強く残っているのは、私たちの世界が、まだそうした力によって動いていることを、示しているのかもしれません。





ヘンデルは、バッハとは違った意味で、あまり奏者を選ばない音楽家だと思っています。
 
私は、『メサイア』は、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団による演奏を気に入っています。イギリスのオーケストラは、どうしてもクラシック音楽では、ドイツやオーストリアに比べて軽視されがち(?)ですが、ヘンデルに関しては、「本場」だから、全く問題ありません。
 



というよりも、ヘンデルの音楽があまり地方による訛りや、独自色に左右されない力を持っているように思えるのです。それは、一時的に全てを照らしては消えていく、花火のような、あるいは人間の生のような儚さを備えているからと言えるかもしれません。
 
様々な編曲でも、古楽器でもモダン楽器でもそのエッセンスは伝わると思っています。バッハの厳粛とも、モンテヴェルティの神秘とも、テレマンの平穏さとも、ヴィヴァルディの哀愁とも違う、ヘンデルの華やかさを、是非味わっていただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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