愛が交錯する -オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』の魅力
【金曜日は音楽の日】
オペラやミュージカルの楽しみの一つに、物語に応じて呼吸するように音楽や歌が変化する、その妙があります。
モーツァルトのオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』は、コメディなのに悲劇すれすれの危うい劇と、くるくると変化する透明で美しい明るい音楽が溶け合う、驚くべき傑作です。
舞台は18世紀末のナポリ。カフェで、グリエルモとフェランドの二人の若い男が、自分たちの恋人自慢をしています。
それに辟易している年長の老ドン・アルフォンゾ。女性の貞操を信じていない彼と若者二人で口論になるうちに、彼らの恋人が浮気をするか、賭けをすることになります。
グリエルモの恋人のフィオルデリージ、彼女の妹で、フェランドの恋人ドラベッラを試すべく、ドン・アルフォンゾと、彼に買収された姉妹のメイド、デスピーナが暗躍。
そして、グリエルモとフェランドは変装して、それぞれ友人の恋人を口説くことになります。。。
19世紀以降、ベートーヴェンも含めて、この筋立ては、不自然かつ不道徳であり、ある種のミソジニー(原題は「女はこんなもの」という意味)があると、繰り返し非難を浴びてきました。それは全く間違っていません。ただし、そこには留保がつきます。
岡田暁生氏の名著『モーツァルトのオペラ 愛の発見』は、モーツァルトのオペラの素晴らしさを味わう最高の書物ですが、そこでも書かれているように、この「パートナー交換」というモチーフは、18世紀のロココと啓蒙の世紀には、決して敬遠されていない、流行のモチーフでした。
恋の雅びで危うい遊び、そして、科学実験のように人を取り換えた時に、心はどうなるかと試して記録する。
ディドロの百科事典と、カサノヴァの放蕩が同居する世紀であり、その時代の傑作に、カップル同士の複雑な手紙のやりとりで、ぎらぎらした欲望が炎上する、ラクロの書簡体小説『危険な関係』があります。
『コシ・ファン・トゥッテ』は、そんな18世紀の申し子であったモーツァルトが、真面目に「恋愛実験」を行った作品に思えます。
この台本を書いたのは、オペラ三大台本作家の一人と称される才人ダ・ポンテ。『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』に次ぐ三部作の最終作です。
『フィガロ』はボーマルシェのヒット戯曲、『ドン・ジョヴァンニ』も流行の劇の原作がありますが、これはダ・ポンテのオリジナル。それゆえに、ある種の作為が剝き出しのまま投げ出されている感触があります。
それにしても、この作品の制作過程は謎に満ちています。
そもそも、一体なぜこの作品を創ろうとしたのか。ダ・ポンテもモーツァルトも過程や理由を書き残していません。しかも、作曲時モーツァルトは借金漬けで、大量の借金申し込みの手紙が残っています。それで創るのがこの恋愛遊戯。。。1790年の初演は好評だったものの、皇帝ヨーゼフ二世の死去と被り、上演は二回きりになります。
そして何より、これはフランス革命の同時期の作品なのです。1789年の7月14日にバスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命の火ぶたが切って落とされた、その秋に作曲が始められているのを考えると、モーツァルトの心中は計り知れないものがあります。
この作品はコメディであり、恋人取り換えによる「貞操の実験」は、勿論収まるところに収まります。
しかし、ある意味、悲劇の結末にならない故にどす黒い感情があちこちから噴出します。
ここまで自分のプライドや価値観をずたずたにされて、恋人たちは元に戻れるでしょうか。ドン・アルフォンゾやデスピーナの悪意が何の懲罰も受けず、そのまま放置されるのも気になります。
そんな砕けたガラスのような人間模様が、ナポリの海風のような柔らかく美しい音楽にのせられることで、虚ろな白昼夢のような幻が現出するかのようです。
何より不気味なのはカップルの組み合わせ。
グリエルモがバスで、フェランドがテノール、フィオルデリージがソプラノで、ドラベッラがメゾソプラノ。つまり、愛を誓う元のカップルよりも、変装して友人の恋人を誘惑している最中の方が、音楽的にはしっくりくるのです。
そして、ストーリーが虚ろになればなるほど、音楽は研ぎ澄まされて美しくなる。私が一番好きなのは、第一幕17番のアリア「愛しき人の愛のそよ風は。。。(Un‘aura amorosa del nostro tesoro)」
賭けに勝つことを確信したフェランドが、愛する人の吐息をそよ風に喩えて、愛の歓びを歌うアリアです。
あまりにも甘く抒情的で、ドタバタ劇の時を止める、心地よい夏風のような歌。名曲揃いのモーツァルトの中でも、一二を争う美しい旋律だと思っています。
こんな愛の誠実さと安らぎに満ちた至高の旋律が、その直後、策を巡らし貞操を嗤うドン・アルフォンゾとデスピーナの場面に繋がれるわけですから、背筋も凍るような虚無感と、ある種の狂気すら感じさせます。
実際のところ、『コシ・ファン・トゥッテ』は、愛の交錯の中で不信と悲哀を隠し持ちながら、表面的にはナポリの陽光の下で、あくまで陽性の美しさを保ちます。
それは、もしかするとモーツァルトにとって、今まで属した18世紀の中の「何か」へのある種の決別だったのかもしれません。
恋愛遊戯と呼ぶには真摯な叫びに満ちて、完全に破綻した人間関係の中で、革命で爆発するような狂気の情念が、隠しきれなくなっている。かといってそれをどうすることもできず、古い型のまま強引に繋ぎ合わせた。
この情念の行方は、恐らくは最後の『魔笛』である種の解決に至りますが、その直前、全ての安定が崩壊し、心が砕ける音が微かにエコーとなって、時代のうねりをも引き寄せることで、凄絶な美しさを持つようになったのが『コシ・ファン・トゥッテ』のように思えるのです。
この作品は、モーツァルトの時代のピッチの古楽器で演奏した、ジギスヴァルト・クイケン指揮、ラ・プティット・バンドによる演奏が私は好きです。古楽器の低いピッチと鄙びた響きで聞くと、その典雅で透明な美しさが鮮やかに広がります。
それは、物語と音楽が絡み合う、この形式でしか味わえない美の中でも、最上級のものの一つだと思っています。是非、一度体験していただければと思います。
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