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8月17日の原爆投下

 日本被団協がノーベル平和賞を受賞いたしました。原爆に関連しての投稿です。日本が無条件降伏しなかったら、8月17日以降の最初の晴天の日に三発目の原爆が投下される可能性が高かったようです。
 投下場所は目標選定委員会が開かれる前なので不明ですが、陸軍の大勢は京都への投下、陸軍長官のヘンリー・スティムソンだけが京都への投下に反対していました。
 一発目、二発目も最優先目標は京都でしたが、いずれもスティムソンの反対によって広島と長崎が代わりになったようです。
 本稿は吉田守男「原爆は京都に落ちるはずだった」(パンダ・パブリッシング)と石田拳也「京都に原爆が落ちなかった理由」(京都先端科学大学 人間文化学会)を元にしています。

ウォーナー恩人説

 一時期ハーバード大学付属の美術館長であったウォーナーなる人物が文化財の保護のためリストを作り、原爆はもちろん空襲の目標からも京都を外すよう尽力した。といった「ウォーナー恩人説」というものがありました。日本のあちこちに記念碑まで作られているそうです。
 戦後、年数が経って原爆投下に関する文書公開が進むにつれてウォーナー恩人説は否定されました。GHQが日本に入ったら「なんだか知らんけどウォーナー博士が京都や奈良を守ったという噂が流れている。都合がいいので噂を補強して占領政策に利用してやろう」というのが真相だったようです。
 ウォーナー博士が作っていたとされる保護すべき文化財のリストは、実は日本が占領地で略奪した文化財の返還ができなかった時に補償するための接収用の文化財リストでした。実際には日本軍の文化財の略奪の程度が著しく低かったため補償の必要はありませんでした。

京都が原爆投下の最優先目標地点となったのはなぜか

 盆地となっているので原爆の威力を集約しやすい。人口が多い。軍需工場が京都にある。日本人にとって宗教的・文化的なよりどころで心理的ショックが大きい。などというのが理由です。当時の京都は100万都市。広島の42万、長崎の24万を合わせたよりも多い人口が暮らしていました。もし京都に原爆が落とされていたら死傷者は60万を超えていたと推定されています。

京都に空襲がほとんど無かったのはなぜか

 公開文書によると文化財を守るためではありません。原爆の破壊力と殺傷力を正確に測定するためです。空襲による被害が混ざってしまうと正確に測定できなくなるからです。

8月17日の投下はどこになったか

 原爆投下目標選定委員会の大勢は京都に早く落としたいと考えていたようです。ただ陸軍長官のスティムソンが反対していました。6日と9日の選定委員会でもスティムソンは京都投下に反対して、それぞれ広島と長崎に投下されました。17日の投下目標の選定委員会は終戦のため開かれていません。仮に終戦が先送りになり、17日に京都が目標となったとしても当日の天候次第では新潟や横浜に変更された可能性もあります。

スティムソンはなぜ京都投下に反対したのか

 公式記録では京都投下は日本人の大きな反発を呼び占領後の統治に悪影響があるということが理由のようです。
 スティムソン長官は新婚旅行で京都を訪れていたようです。その後にもう一度京都旅行をしていました。当時のスティムソンの日記には「これほど美しく綺麗な 都市は今まで見たことが無い」という記述がありました。
 なんにせよ8月15日(アメリカ時間では8月14日)に終戦を迎え、8月17日以降の原爆投下の予定はキャンセルされました。

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