真善美と教育
皆さんおはようございます!今日も、学生さんと話していて得た、
「教育」関連の学びと気づきと自分で言語化出来たところについて!^^
■高校ぐらいまで"遊び"から"学ぶ"でいいんじゃない?
もし、
個別で素敵な大人がいたり、
そういう人たちがいるコミュニティがあり、
そこに関わられるなら、
学校っていらないんじゃないかな、と思い始めていました!
あ、むしろ、
そういう場を設計する媒介としての学校
なら、めっちゃいいと思うのですが、
みんなが同じことを同時に学ぶ必要って、どこにあるんだろう?と思い始めています!
興味ある方からないことまで座学で聞くのは、
学び定着率も悪いし、
そもそも使わないことも多い。
国語、言葉、数学など基礎はもちろん学ぶといいけど、それ以外は、個人が感じて体感して、
その体感したことから、得たい知識や経験や、枠を広げたり専門性を伝えられる大人がいる、
そういう場所に行く、
それがあれば、
街で実践して(遊んで)、体感として学んで、枠を広げるために大人や先輩などが接して、
また問いが生まれて、遊んで、
を繰り返す、
「幼稚園、保育園ようなことを、世代別で少しアレンジした版をするだけ」
でいいんじゃないかな、と思い始めました!
■教育は宗教みたいなもの、違う思想ももちろんいい
ちなみに上の案は今、織田が思ってることなので、あくまでも、織田の思想です。
でも1つの思想が正しいわけではないのが教育だと思うので、
他の思想も同時に存在してほしいので、
一旦織田は上の仮説で、そういう場を作る実験をしていこうと思います!
(関学もそういう実験だと自分で思っています!)
■真善美
そして、これもその学生さんと話していたのですが、
幼稚園や保育園で、
こどもAが5つの車で遊んでて、もう1人の子Bがそのうちの1つの車で遊びたい、と言った。
でもAが5つで遊びたいと言い、
Bはその後折れて違うもので遊んだ。
この時、この場はこの場でよかったのか、よくなかったのか、
それは人によって、判断と理由は異なると思っています。
折れたなら、Bは他に遊びたいこともあったからいい
とか
もっと"なんで5つで遊びたいの?"と対話をするのがいい
とか
何が正解なのか、というのは一概には言えず、その場にいた人たちの
・何が正しいか(真実)
・何が良くて何が悪いか(善悪)
・何が美しいか(美学)
の
真善美の判断次第だと思っています。
そしてそれは、時代に合わせても、個人の成長に合わせても変化する。
絶対的完璧というものはあまりないんじゃないか、と思います。
ならば、それを学び続け、更新し続けたい人が、学生さんや子供達に接する
がいいんじゃないか、
これが織田の考えです。
ただ!これもまた、1つの思想であり、仮説!笑
これ以外の考えも多様にある、
そういう多様な学び、場、機会が溢れる世界であってほしいですね!
学びの言語化、アウトプットでした!!
皆さん今日も素敵な1日を!
アート、教育、探究、子育て、生き方。アーティストとして、スクール長として、本音しか書きません!