透明な心と投げやりな心。
この二つが、自分の中で同居していることに気付きました。
透明な心とは、自分の絵に対して、作家性とかこだわりとか、意味とかを求めなくなってきたこと。精一杯集中したあとは、環境に任せる。
例えるなら、濃厚な青の絵の具の一滴を水面に垂らしてみる。
水面な波立ち、青く染まり、やがて透明になって消えていく。
青は青でなくなったけど、確かにそこに含まれている、、みたいな。
今までは全部、色や形を変えた自画像のようなのもでした。自分の感覚を描くことに集中していました。
だけど今は、ちょっとだけありのままの気配を描けるような気がしています。
一方で「投げやり」な心。
もうどうでもいいや、という気持ち。ヤケ、でもない。
諦めてるのかしら。いやそれとも違う。紙やすりのような感触か。
大切なものがどこかにいってしまって、探しても見つからない子供の心。もういいやって。見つからないものを探すのは疲れたって。
育児もあるのかな。それとも、「夢を諦めた」という話に繋がるのかな。物理的に無理なこと。そして、資質的に無理なこと。
大人になれば、自分を知る。無理を受け入れた時に、つまらなくなった知人をたくさん見てきました。冷めた魚の眼をしていました。
僕はどういう眼をしているんだろう。
碇シンジくんも投げやりな時期ありましたよね。あれ、どんな時だったっけ。
「乗ればいいんでしょ?乗れば」。
あの投げやりとは違うことがわかりました・・。それだけで、考察のした甲斐はあったかも。
投げやりにでもならなければ、変化は出来ない。雑なくらいがちょうどいいのかもしれない。
透明な心。投げやりな心。
どうして質感の違うもの同士が隣りに並んでいるんだろう。
運動場の隅で、体育座りして見学している男女のように。
教えて、神様。
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