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小説 「祈り」 #2
前回の続きです。
4 立川明美 午前9時40分頃
「明美さん!ちょっと聞いた?近くでおっきい事故があったんですって」
明美は家の近くで週に一回行われているヨガ教室で、レッスン前にお茶を飲んでいたところだった。教室の仲間の小平雅子さんが、スマートフォン片手に入ってくるなりそう話してきた。彼女はいつもスマートフォンを持ち、SNSばかり見ている。
「事故?」明美がそう尋ねると、
「そうなのよ〜。つい今さっきよ。トラックが突っ込んだらしく…。あらやだ!Twitterにこんな写真」
小平さんの見せてくれたTwitterの誰かの投稿には、前面が凹んだトラックと、電信柱にぶつかった乗用車。ひっくり返った自転車、救急車などが写っている。アスファルトにはべったりと血がついていて、明美は思わず目を背けた。嫌な時代だ。見たくないものまで見てしまう。
自転車は子供を乗せるタイプのものだった。ひょっとして、朝に保育園とか幼稚園に向かっている母子だったのだろうか?明美は自分も20年ほど前は、今は遠くに嫁いでしまった娘を乗せて、毎日保育園に送迎したものだったので、その頃の自分と重ね合わせてしまい、胸が痛んだ。
「ニュースにもなってるわね」
小平さんはスマートフォンを操作して、あれこれと情報を収集しているようだ。
場所はここから歩いて10分ほどの場所だ。よく知った場所なので、明美も被害が心配になった。知ってる人かもしれない。いや、知らない人でも、子供がそのような事故に遭うというニュースは、いつも心が苦しくなる。
「ニュースでは、どう?」明美が尋ねると、
「あるある。最新のニュースで出てるわ…。交差点でトラックと事故が起きたみたい。乗用車とトラックがぶつかり、その弾みで女性と、親子を…。まだ詳細はわからないわね。でも、ひどい事故で、何人か死んだって…。他にも重軽傷者がいて…。Twitterでも何人かが投稿しているの…。そっちの方が色々書いてあるけど…。ひどいわね。ねえ?近所じゃない?知ってる人だったらどうしよう?」
と小平さんは言ったが、そんなことを尋ねられても明美も返答に困る。
明美は気分が優れなくなり、
「ごめんなさい今日は休むわ。なんだか気分が悪くなっちゃったみたい」
そう言って、彼女はヨガマットを持って外へ出た。
ヨガのレッスンは同世代の女性がたくさんいて、おしゃべりもできて楽しいが、今はとてもヨガだの、おしゃべりだのをする気は起きなかった。
明美は自転車に跨り、現場に行こうかと一瞬迷ってから結局家に帰った。行ったところでますます気分が滅入るだけだろう…。
部屋に帰ると、明美はソファに深く腰掛けて、せめて事故に合った人たちの冥福を祈った。しかし思い直し、小平さんの言ってることはまだ決まったわけではないので、奇跡が起きて助かるように祈った。そして、加害者であるドライバーも、罪が許されることを祈った。明美はクリスチャンではないが、母が敬虔はクリスチャンだったので、何かと祈る習慣があった。
祈りは「瞑想」に似ている。ヨガで瞑想をするようになってから、明美は自宅でもひとりでもメディテーションの時間を作っていた。
子供も巣立ち、夫に先立たれから、生きる目的を失い、空虚な日々を送っていたが、ヨガを習い、毎日瞑想をするようになってから、健康的になり、明るく前向きになった。
明美は祈っているうちに、心地よい瞑想の中にいるような感覚になり、そのまま強い眠気を感じて、ソファに沈むように眠ってしまった。こんなことは滅多にないことだった。眠りに落ちる瞬間に、自分の肉体と自分の心が、痛みも違和感もなく切り離されたような、そんな不思議な感覚を覚えた。重たい肉体は底無し沼に沈み、軽い心は風船のように宙を飛んでいくようだった。
5 予感
明美は泥のような眠りに落ちたかと思うと、しばらくすると夢の中にいた。いやにはっきりした夢だった。現実となんら違いなく、リアルに自分の感覚があり、時には自分の意識で夢の中の自分をコントールできる事がある。
彼女にはたまにこういう事がある。ヨガの仲間にいつか話したら「明晰夢」というものだと教えられた。
しかし、この時は自分でコントロールは効かなかった。ただ、黙々と自分の…。いや、そこで明美は気づく。夢の中で動いているのは私ではないと…。
まるで、誰かの中に入り、その人の視点を勝手に共有しているような、その人の中から、その人が体験している世界を観察しているのだ。
その人物の感じていること、考えていることはなんとなくわかる。しかし、明美の意識とは無関係で、あくまでも「観察」しているだけだった。
とても強い女性だと、その人物に対して、明美はそんな印象を持った。でもどこか完璧主義で、頭が硬いとも思った。
夢の中の彼女はどこかの家の玄関を出るところだった。明美にはまったく見たことのない景色だった。
玄関には数種類の靴がきれいに並び、横のシューズクローゼットにも、彼女の靴がたくさん入っていそうだ、と思ったら、これはこの女性の記憶なのだろうか?実際にはクローゼットは開かれていないが、開かれた時の映像が明美にはハッキリと見えた。靴のブランドまですべてわかるほど、その映像も鮮明だった。
再び意識は女性に戻る。彼女はローファーを選ぼうとした。
(ヒールを履きたい)
明美は漠然と思った。もう十年以上ハイヒールを履いていない。理由は簡単だ。疲れるのだ。そして、そのようなフォーマルな場に出かけることもほとんどない。
明美の思いが通じたのかはわからないが、彼女はローファーに入れかけた爪先の動きを止めて、少しだけ思い悩んでから足を戻し、シューズクローゼットを開き、ヒールのある靴を選び取り出した。
その時、黒いスーツのジャケットの袖から出た細い手首に、センスの良い腕時計が見えた。カルティエの腕時計だ。よく似合っている。時刻は8時20分だった。
彼女はヒールを履いて、その履き心地を確かめてから、スイッチを消して外に出る。
外に出てからそこがマンションだったと気づく。何階なのかはわからないが、けっこう新しい清潔なマンションだと思う。ちらっとインターホンの横の表札が見えた。アルファベットで「OTSUKA」と書いてあるのが見えた。
彼女は通路を歩き、エレベーターに乗り込んだ。先に乗っていたスーツ姿の男性に「おはようございます」と明るい声で言うと、向こうも小さな声でおはようございますと答えた。
彼が市の指定のゴミ袋を手に持っていたのを見て、彼女は今日が可燃ゴミの日だったと気づき、心がざわっとしたのが明美にはわかった。ゴミ捨てを忘れた自分を責めているのだ。
頭がぐるぐると動いている。どうやら戻るか、このまま行くか頭を働かせているようだ。しかし、彼女はそのまま行く事を選択した。
彼の持っているゴミ袋が、明美と同じ市のものたど気づく。エレベーターを降りてから外に出て、明美は見たことのある景色だと気づく。駅から少し離れた場所に10年ほど前に建てられたマンションだ。彼女は一人暮らしのようだったが、ファミリー層や若い夫婦が多い。
道路を歩く。ヒールのコツコツと、硬い足音を響かせて。その足音がまるで彼女自身の性格をよく表しているような気がした。足の振動を、明美自身もはっきりと感じる。ヒールで歩く時の独特の質感が懐かしかった。
若い頃を思い出す。40…いや、30年くらい前には、自分もこんな風に颯爽と風を切って、まさしく“背伸び”をして、ヒールを鳴らして歩いていた時期があったと。
まだ女性が社会で自由に働くのは波風が起きやすい時代だった。確かに充実はしていたが、いつも疲れていたような気がする。結婚を機に、無理をせず、社会と闘うような生き方を辞めたのだ。社会で男性の中で負けじと働くことは確かにやりがいもあったし、面白味はあったのだが、明美には合っていなかったようだと、仕事から離れて分かった。しかし、その経験をできて良かったと思っている。
彼女は颯爽と歩きながらも、頭の中はずっとあれこれ考えているようだった。時々、信号を待つ間にスマートフォンを出して何か文章を読んでいる。SNSやメッセージアプリのようだが、明美自身ほとんどそういう類のものを使わないので、よくわからなかった。
明美はだんだんと心地よくなってきた。この「大塚」という女性の中にいる事が、自然なことにように思えてきた。眠気ではないが、ぼんやりした感覚になり、自分の考えがまとまらなくなり、彼女の思考とか感情とかが動いたりしているのをただ感じているだけだった。
しかし、そんな心地よさの中で、何かを予感していた。
(違う、予感ではない)
明美はすぐにそう思い直す。知っているのだ。思い出し始めているのだ。何かが起こる。そしてその何かを恐れていた。
一番車通りの多い交差点が見えた。ここを渡って右へ行けば駅のロータリーに着く。駅に近いこともあり、朝はこの通りはどこも混み合っている。
先ほど、時刻は8時20分だった。あれからマンションを出てどれくらい経過したのだろうとぼんやりと思った。10分くらい経っただろうか?
彼女はキョロキョロと周りを見渡した。駅へ向かう人の中を縫うように、自転車に子供を載せた親子が多いことに気がついた。幼稚園か、保育園に向かうのだろう。
明美もかつては自転車にまだ小さかった娘を乗せて、毎日仕事の前に保育園へ送迎したものだ。
そこで映像がパッと閃いた。手のひらのスマートフォンの中にあるモニターには、倒れた自転車と、血だらけのアスファルト。交差点でおかしな方向を向いて停まるトラックと乗用車。
そうだ…。今から、事故が起きる…。
6 大塚真希 午前8時20分
大塚マキは奇妙な違和感を覚えた。いつも通り完璧な1日であり、コンディションも万全だ。生理も終わり、気分もいい。しかし、奇妙だった。
交差点に差し掛かる前に、真希は歩きながら何度か首を回して周囲を確認した。周りにいるのは通勤中のサラリーマン。子供を送る母親、もしくは父親。小学生。
(誰かに見られているような気がする)
駅前に向かいながら、今日のやる事を頭の中で反芻し、信号待ちの間に広告を出した商品のハッシュタグ検索のSNSを反応をチェックし、部下からのメッセージに返信をしながら、常に誰かに監視されてるような感覚が止まらない。
(なんだろう…。胸騒ぎがする…)
真希はそういう感覚には敏感だ。仕事でもトラブルの前に異常をキャッチして、損害を免れたり、被害を最小限に留めたことも何度もあった。
(体調が悪いのかしら…)
と思ったが、今日は大事なプレゼンがある。ポジティブな気分で乗り越えなければならない。この案件が通れば大きなビジネスになる。絶対に成功させたい。そう考えるだけでワクワクする。私が1から計画を練った新事業だ。会社のためにもなるし、社会貢献ににもなるはずだ。
真希はそう意気込み、小さな違和感を見過ごすことにした。
続く…
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