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「人生は苦しいものなのか?」(前半・無料) 「人生を幸福感で満たすために」(後半)

「人生は苦しいものなのか?」(前半・無料)


人生は「苦しみ」なのか?

「生老病死」と呼ばれるくらい、仏教では「とかく人の世は苦しいもの」という教えもあります。

ちなみに「四苦八苦」という言葉の通り、上記の四苦の他に、

愛別離苦 (愛する人と別れる苦しみ)
怨憎会苦(嫌いな相手でも会わないとならない苦しみ)
求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)
五陰盛苦(説明が長くなるのでこちらのリンクから)

合わせて四苦八苦ですが、今は全部の説明はいらないので、ざっくりと四苦だけで例にあげます。

「生」というのは、生活そのものであり、食べないとならないし、排泄しないとならない、家がないとならない、服を着なければならない。そしてそこで守るべきものもある。(五陰盛苦は含まれるね)

老いを感じて、衰えていくの苦しさ、病気や怪我の痛みや苦しみ、そして死への恐怖…。

でも、この四苦。

はたして本当にそうだろうか?

これは「ものの見方」ですべてが変わります。

だって『生きる楽しさ』ってたくさんあるし、歳を重ねる楽しさもある。衰えるどころか、熟練、熟達し、力抜いて生きれるようになります。

病気だって、ひとつの浄化ですからね。病後って体もすっきりします。

確かに大病は苦しいし、痛みや不快感があり、不自由なひとときを過ごすことになるかもしれないけど、その後は人間性がぐぐんと成長します。僕も自身の病気を通して、神秘的なものに出会い、神性への探求が始まったといえます。

死、だって、多くの人が「未知」だから怖いのであって、もしも死んだらめっちゃ楽になって、自由になれると知っていたらどうでしょう?そこに恐怖はあるでしょうか?

だから生老病死は、四苦じゃなくて「四喜」になるかもしれない。

なのに、どうして人は苦しむのか?

それはまず、ひとえに「欲」のなせる技でしょうね。

八苦の「求不得苦」にもありますけど、「欲しい」⇨「手に入らない」⇨「苦しい」という三段論法的な感覚で、人は苦しみます。

見渡せば、生活できていて、飯を食えて、体が動いても、お金やら健康やら理想の人間関係やら仕事やらに、「たり“ない”」「もって“ない”」と、「ない」ばかりにフォーカスする。だから「欲しい」となる。持っていないから、欲しくなる。

例えば「健康」で例えると、若くて快活な肉体を「基本」だと思っていると、歳をとって筋力が落ちたり、消化機能が落ちたら「健康じゃ“ない”」「自由じゃ“ない”」と感じて、「健康が欲しい!」となってしまうのです。

仏教ではだから「欲を捨てる」ということを説かれますが(ざっくりとね)、そうは言ってもね…。

でも、「欲しい」の前にある思考に着目しましょう。

お金が“ない”。健康じゃ“ない”。パートナーがい“ない”。

これらの不足感である「ない」を見つけなければ、そんな苦しみはなくなると思いませんか?もしくは、「ない」が小さければ、苦しみも小さくなりませんか?

だって動物はそうですね?

病気だろうと、怪我しようと、飢えていようと、ただ、今に起きている現状に「そうなんだ」と受け入れて、その中で「今できること」にフォーカスし始めます。だから動物は「痛み」などの肉体的苦痛以外には、何も苦しみは感じません。

「ああ、私が病気じゃ子供を育てられない」とか「今年は実りが少ないから、冬を越せるだろうか」とか「次に強い敵に襲われたらどうしよう」とか。

この「不足感」の“ない”で、人間関係における「期待」もそうですね。

人に勝手な期待をして、相手が期待通りに動いてくれ“ない”と苦しむ。

結婚なんかわかりやすいですが、恋愛中はラブラブで頭ぱっぱらぱー子さんなんだけど、結婚して生活があり、頭にのぼった熱が冷めると、相手の行動が自分の期待を違いすぎて腹が立つ(笑)

あと、これも欲の一種だろうけど、「自分ルール」ですね。自分に課した期待とも呼べます。

誰も求めてないのに、勝手に「家族のために頑張らなければ!」「お母さんは笑って、明るくあらねば!」と疲れてしまって、それができ“ない”と自分自身に腹を立てる。それで結局仕事の集中力を欠いて、家族とか身近な人に対して不機嫌になったりする。本末転倒。

多くの人は自分自身に課した勝手な自分ルールがあり、そして人に対する期待も、その自分ルールの延長だったりします。「私だったら〇〇なのに」とか「こういう時は〇〇をするもの」という価値観の押し付けです。

そして「でき“ない”」と苦しみ、「もっとこうして欲しい」と欲を出して苦しむ…。

まずはこれらの「期待」を考え直しましょう。なぜならこれらを止めることで、人生は激変するからです。

僕自身も、上記の結婚なんかを例に上げると、自分自身に課したルールとして「男たるもの!」とか「父親たるもの」とか色々あって、勝手にそれができないとイライラしてました。

どうやってやめるか?なんですが、まずはそれら「思いこみ」であるということをよく理解することです。自分に刷り込まれた価値観をベースに、思考が勝手に作り上げた思い込みです。あなたが「正しい」と思っていても、それはあなたの思い込みで、まったくそんなルールが通用しない世界があったりします。

その思い込みに『気づき』を得れば、それを手放すこともできます。これにも書いた通り、

そのような思い込みは、心のゴミと表現もできます。

しかし思い込みの力は強いです。根気が必要になる場合も多いです。自分の潜在意識に根付いたものですからね。だから地道に“見つけ”、“手放す”を繰り返してください。それによって、人生は幸福感のあるものに変わります。

冒頭の『人生は「苦しみ」なのか?』という問いは、

「苦しみは作れる」し、自分次第で「苦しみを無くせる」し「幸福感も作れる」ということです。

思い込みを手放して、「ない」という勘違いとおさらばしたいですね。

後半はさらに具体的なポイントをお伝えしたいと思います。

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では、後半へ。


 「人生を幸福感で満たすために」(後半)


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