“女の人”が怖かった僕が、女のために生きると誓った日(番外編) --「愛と性」に彷徨った青春の日々 --
今回はこちらの記事、
の、つづきってわけではなく「番外編」って感じです。
本当は「中編」的な位置として書いていたのですが、あまりに赤裸々な内容故にに、お蔵入りにさせてました。しかしどどーんとアップしようと思います。
ただ、後半はなんだかいい話をしているので、どうぞ上のリンクと共に、最後までお付き合いください。
THE・性
さんざん書いてきたが、拙者は先天的に「女って生きもんが漠然と怖い」と自分で理解しつつも、実は拙者がこの世界の半分の人口を占める女性に対して、近寄り難くも、同時に猛烈に、激しく、求める衝動があった。
それが「THE・性」でござる。
そして拙者が性的な関心、興味に目覚めたのは、実はすこぶる早い時期からあり、それこそ幼稚園くらいの頃から、女体とか、女の人の体とか、女子の体とか、女性のボディとか、つまりはそういうことに興味津々丸でござった。
ええ、別にこの口調に意味はないぞな(笑)
とにかく、女が怖い、女に近寄りたくない、と言う自分と、激烈に近寄り、距離感がなくなるまで親密になって「一体化」をしたいという、自己矛盾。
後編にこんなことを書いたが、
この矛盾が大爆発するのが「思春期」の頃だ。
勇気を持って女子たちと仲良くなり、「友達」というポジションに収まることはできた。そして、僕はキャラを作り上げて演じることで、トークもできるし、自分で言うのもなんだがユーモアもあったし、仲間内でもリーダー的なポジションだった。
また、幸か不幸か、家庭環境のおかげで、親からの監視や干渉がほとんどなく、家は溜まり場だったし、好き勝手に遊べたのは大きい。
さて、準備は整っている。しかし、女子たちと「性」の衝動を致すには、必要不可欠なものがある、この年齢の男子は知り、その事実に打ちのめされる。
それが「愛」だ。
愛とはなんだ?
どうやら女の子と〇〇をするには「愛」というなんだか得体の知れないものが不可欠だと知る。
この事実は、全思春期男子を困惑させる。
なぜなら性に飢えた男は女子と〇〇するということに関し、条件なんてものはないに等しい。しかし女子側は「男と〇〇をする、させてあげる」には、数々の条件が発生するのだが、その中でも男子との違いを明確に分つものこそが「愛」なのだ。
だから男はみんなどうにかして女子と「付き合う」「恋人」「カレシ」というポジションを得て、どこにあるのかないのかよくわからんが、そこに「愛」という“概念”を挟み、ようやく目的の〇〇を致す、というのが王道であり、唯一の手と言ってもいいかもしれない。(それ以外は犯罪的になってしまう)
しかし、拙僧は女人とそこそこは親しくはなれど、親密な関係を築くなどいうことは何よりも恐ろしきことゆえ、カレシとかカノジョという言葉の響きですら、妖怪の名前か、もしくは殿方をまどわす“くの一”の妖術かというくらい、得体の知れないものだった。
そしてそもそも、我輩には「愛」というものが、まるでわからなかった。
「恋」はしていた。女の子に恋をしたし、しまくったが、それが「愛」となると難解だった。
(愛って、なんだ?)
拙者は愛に飢えて、愛に迷った痩せオオカミだった。愛に彷徨う落武者浪人…。
そもそも、「自分は人を愛したことがあるのだろうか?」という疑問が頭をもたげる。
愛への歪んだ偏見
周りを見ていると、まず大前提に「家族愛」があると観察はできた。親や兄弟などと、無条件に、信頼し合い、大切に思い合える関係と、その心理。それは推測は可能だった。
しかし、僕にはなかった。当時は父も母も兄も、激しく軽蔑し、憎んでいた。愛しているとか、大切な存在などと思えず、本気で「死んでくれ」と願ったくらいだった。愛と呼ばれる状態から、もっとも離れている状態であった。(それすら大きな愛だと、後に知ったけどね)
そして、その両親から生まれた自分はもっと大嫌いで、この世で最も侮蔑に値する存在だった。だから自分こそ、
「明日突然隕石でも頭に降ってきて、そのままうんこ漏らして爆死すればいいのに」
などと自虐的なことを考えたりするくらい、つまりは「自己愛」すら皆無だっった。
ますます、愛がわからない。恋をしている女の子はいるけど、心の中では、
「この娘だってこんなに可愛いけど、どうせ一皮ひんむけばクソもゲロも詰まっていて、心の中にも汚ねえヘドロが溜まってるんだろ!」
と、かなり歪んだ視点を持っていた。恋心はわかっても「恋愛」となると途端にモヤに包まれ、愛のせいで他の部分すら見失いそうになるくらい、不明瞭な存在の象徴になってしまった。
これは「友愛」もそうだ。
当時の僕はとことん薄情なやつで、実は友達へも「遊び友達」と、どこか割り切った感覚があり、
「どうせ人間なんて利己主義で排他的で、今がたまたま共通の趣味があるだけでしょ」
と、まったく信頼しておらず、あくまでもギブ・アンド・テイクの「信用」の関係性で成り立っていた。
顕著になったのは中学生くらいからだが、多分幼稚園児くらいのころから僕はずっと、周囲の人たち、いや、人間という存在を常に心の中で見下していた(自分も含む!)。
まあ、それはつまり自分自身が薄汚れて腐りきっていたので、周りの人間もそう見えたしまっただけなんだが、今思うと、ほんとに歪んでいたなと思う(笑)。よくぞまあ、ここまで公正したものでござるな。
しかし、そんな自分に唯一理解できそうな愛が一つだけあった。それは「動物愛」だった。
動物は好きだった。どんな時でも好きだった。
家の向かいにいた、幼い頃から一緒に育った犬や、中学生〜高校生の頃、家でも猫を飼っていた。
「お前たちは人間と違って嘘をつかないからいいなぁ〜」
なんて、猫や犬を可愛がりながらよく思ったものだ。
しかし、動物愛はなんとなくわかっても、女子たちが求める「愛」とは随分ちがうのは明白だった。
いや、そもそも女子たちがいう「愛」とやらは、考えた結果理解不能すぎて、僕の中のひとつの結論としては、愛という事実より、それは各々が抱く「概念」であり、
「そったらもん、ただの幻想だべ」
と、北海道弁で切り捨てていた節もあった。
ちなみに、実際に中高生レベルで語られる愛や、多くの人が語る愛って、欲望と、個々の解釈の入り混じった概念であり、それを「あ・い」という音声表記で共通認識している「つもり」だとは思うよ。
そもそもさ、愛は本来言葉になんか表現できないものだからね。
とにかく、思春期の僕は「愛」への理解はあきらめ、どうやって性への欲望“のみ”を晴らすかが、大きな大きな命題だった。
高校生くらいから、その手の手法を自分なりに開発し、だんだんと、少しずつだけどおそれを叶えられるようになるのだが、中学生レベルではまだそんなテクも度胸もない。
だからどさくさに紛れて少女たちのお尻を触ったりオッパイに手がぶつかったぐらいのハプニング程度の体験で喜びつつも、ますます童貞男子の妄想力は膨らむばかり。
妄想族と自家発電
もちろん、相手が得られない以上、入念な“ソロ活動”による自家発電は、思春期男子の責務として行うが、それはそれで自己嫌悪に陥るのである。
「こんなことばかりしてたら、俺は猿レベルのアホになってしまう!」
という謎の危機感を抱き、自らに『シコ禁!』という苦行を課すのだが、三日もせずにその誓いは破られ(下手すりゃ半日だ!)、ますます自己嫌悪という悪循環に陥ったりするのである。
しかし、余談だが我輩の脳内はこの時期に開発されたと思う。
現実で実行できない分、妄想に次ぐ妄想が、さらなる妄想を呼び、隙あらばいざ妄想!という具合だった。
思春期男子たちは、我輩たちの時代なら、多くがエロ雑誌やビデオでその妄想をサポートさせ、自家発電機のタービンをフル稼働させる。
それらは下世話な言い方をすると「おかず」と呼ぶのだが(言い得て妙である…)、いかんせん我が家の家計状態で、そんな金はない。食べるもんや着る服にも困っていた時期なのだ。まして今の時代のようにネットで気軽に観れるものではない。
だから毎晩「おかずはなし!」の状態だ。
となると、すべて自前で用意するしかない。どこで用意するのか?自らの脳内だ。妄想力により、それは豪華煌びやかな贅沢なおかずと化すのだ!
と言っても、妄想は難しい。ものすごく疲れる行為でもある。
しかし、ここを逆利用した。
むしろ「他者」と差別化することで、
「オレはおまいらと違う!そんな安易なエロティシズムは求めてないのだ!」
などと意味不明のプライドを保ち、自家発電後にブレーカーがシャットダウンした時の罪悪感も減少できるのだ。。
おかげで常に脳はフル活動だ。数学や英語やらはからっきしだったが、他のどんな優等生よりも頭を使っていたかもしれない。
体は部屋に一人でいたり、授業中にぼうっとしていても、心はいつも違う場所にいた。
時にめくるめく恋のランデブーの夜物語に愉悦を感じ、時に欲望爆発緊縛スペシャルナイトに興奮し、時に酒池肉林の踊り食い、狂喜乱舞のナイトフィーバー…。
うーむ…当時の頭の中身は、誰にも見られたくない内容だ。
しかし、その妄想の日々がその後の創作活動に活きている(多分!)。
歪んだ形で発露されたとはいえ、「想像力」こそが人生創造の源であり、また「性エネルギー」こそが人間の行動力の源泉だと、後に知ることになる(40代になってからな)。
だから当時実践していたことは、本当に脳を鍛えたし、想像力を磨いたと思う。
(話の流れとしては、ここでようやく「後編」の途中と繋がってくる)
想像力こそ人生の源
まあ、この話に教訓があるとするのなら、吉田松陰が維新志士に「諸君、狂い給へ!」と言っただか言わなかっただか知らんけど、
「諸君!妄想したまえ!」
と、吾輩は教訓として伝えたい。
妄想して、イメージ膨らませて、自分の中で没頭没我していくくらい集中していく。これってこの世界をクリエティブに生きることに一番大事だ。
今の時代は、エロ動画がスマホ一とつで見れるのと同様、すべてが「簡易」「安易」「気軽」「安価」「低コスト」「低リスク」で楽しめる。
簡単に手に入る、どころか、自分で手に入れようとしなくても勝手に提供されたりする。
SNS一つ見てても、「自分に合った広告」の嵐だ。常に向こうから次々と提示される。
何も自分で考えないでも、自分で行動しなくても(指でタップするくらい?)、安易に楽しませてくれるサービスで溢れている。退屈をしない時代であり、自分の想像力なんて皆無でも生きていける時代だ。
これが「良い or 悪い」かなんてわからない。人類は自らの思考を捨てて、AIのシステムに組み込まれ、これから肉体も捨てて、その対して使ってない意識をデータ化して、メタバースに組み込まれることが最善の宇宙の流れなのかも知れない。
しかし、僕はせっかくのこの体、心、思考を目一杯使って、自分を全快でこの世を遊びたいと思う。
最後にまとめ。真面目な話。
過去には上にあるように、かなりイタイこともしたし、やんちゃもしちゃったし、人も傷つけたし、自分も傷ついた。しかし、だからこそ今があり、「愛」っていうものが少しずつ分かりかけているし、近づいている手応えがある。
愛ってものがわからなかったし、随分と女性との、いや、人との関係について、遠回りして遠回りして、今の場所に辿りついた気がする。
遠回りする間に、似たもの同士とたくさん出会い、交流があった。当時の僕と同じように愛に彷徨う人、自己愛を無くした人、愛を知りたいがために暴力的になる人、愛が怖いから嘘をつく人。
それらの出会いは妄想ではなく、リアルなものだった。手触りと気配と臭いのある、確かな触れ合いだった。そして、自分も彼らが堕ちてく様を、同じように堕ちて、近い視点で見ていた。
それらすべては、儚い幻想かもしれないけど、そこで体験したドラマは、自分の血肉になっている。
想像と体験。人生ってやっぱこれでしょ。スマホで動画コンテンツ観ても、そのどちらも手に入らない。
誤魔化されるなよ? 想像は、自分の頭を使うことだし、体験は、自分の五感と肉体を通して行うものだよ。
まずは想像しよう。自由に、なんの制限もなく、しがらみもなく。どんな想像でもいい。ネガティブでも、犯罪的でも、歪んでても、恥ずかしくてもいい。想像の中では自由。まずはそこからはじめよう。
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新曲「雨」。こちらは瞑想音楽や、ヒーリングミュージックに。
アコースティック・ライブ「響き、音色」
東京 2月19日(日)
大阪 3月5日(日)「響き、音色」ー そして再生へ ー