アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.8。 足跡。
フェルナンダ・ヴィットゲンス
学生時代の恩師パオロ・ダンコーナ教授も、イタリアに戻ってきた。戦後になりこの2人は共同で「イタリア美術史」を発行している。どのように表現されて執筆しているのか、興味深い一冊である。
ピカソ展示会の時には、ブレラ館長としてパンフレットを作っている。
展示会を開催するときは、壁から作品を取り外すことのできる、またとない機会なので、ダメージを受けてないか検査をし、必要とあれば修復をするのは、いまも変わらない。
さらに展示会でどのように展示するのかも、訪問者には見えないが、大切な準備の一つになる。
ピカソ展ではなく、おそらくルネッサンス時代辺りの展示をするにあたり、ヴィットゲンス館長が執筆した文章が残っている。
フェルナンダ・ヴィットゲンスの審美眼を感じ取れる文章である。
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ヴィットゲンス館長は、Fiori a Brera フィオーリ・ア・ブレラを開催した翌年、体調不調に気が付く。治らない病とわかり、一線を退きルッソーリに仕事をすべて任せて、ブレラ美術館の見える部屋で療養に入る。
自分の命が残り少ないとわかり、友人に宛てた手紙。
1957年7月11日。フェルナンダ・ヴィットゲンスが永眠する。54歳という若さであった。
弔問に訪れる人はあとを立たず、7月13日の葬儀には多くの人で通りが埋め尽くされたという。フェルナンダ・ヴィットゲンスは、ミラノの記念碑墓地に埋葬されている。
そして現在、ブレラ美術館にはカフェテリアがあり、彼女へのオマージュとして「カフェ・フェルナンダ」という名前が付けられている。
あとがき
ミラノを訪れる人は、ドゥオーモとガレリアを観光し、切符が入手できれば「最後の晩餐」を訪れるのが王道でしょう。でも、もし時間が取れるようでしたら、ぜひ、ブレラ美術館へもお立ち寄りください。
ブレラ美術館は、イタリア語でピナコテカ・ブレラと呼びます。ミュージアムではなく「ピナコテカ」なのは、収集が絵画のみのためです。
フェルナンダが戦時中に守り抜いた作品を鑑賞し、鑑賞後はカフェテリアで足休めをして、1900年代の怒涛の時代に生きた女性館長を思い出して頂ければ幸いです。
次回は、ローマ編をご案内します。投稿は週末の予定です。
最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。心から感謝致します。
今回の額縁のくだりの所で、以前に紹介したフィレンツェの額縁職人も、額縁についてフェルナンダと同じことを言っていたのを思い出しました。
興味がありましたら、ご覧ください。