解放されたアートと勇士たち。 n.6 - イタリアの無名の英雄たち。
ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。
これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。
イタリアを代表する都市、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ。この4都市以外の館長達も、必死に作品を救出しようとする。
トリノ
「ジェット機のノエミ」という異名を持つ、トリノのサバウダ美術館の女性館長ノエミ・ガブリエッリ。トリノから約330キロ離れたモデナのグイリア城に作品を移動させるが、戦闘は激しくなる一方。ノエミは不安になる。
地図をみながら、慎重にルートを研究するノエミ。
避難場所は、マッジョーレ湖はストレーザにある、美しい島と呼ばれるイゾラベッラのボッロメオ宮殿に決めた。
なんという大胆な計画であろう。マッジョーレ湖へ北上するには、直進でも330キロはある。レジスタンスから情報を得ながら移動したと推測するが、ドイツ軍を避けながらの行行である。
夜に車を走らせてはいけない規則は、十分に承知しているが、大人しく守ってなどいられない。ノエミは自らも同乗して、ライトを消しながら目的地へと向かった。
島へ移動するための船は、ボッロメオ宮殿の当主フェデリコ・ボッロメオ伯爵が協力してくれることになり、作品の避難は無事完了する。
モデナ
ノエミが最初に避難させたグイリア城は、レッジョエミリア州の美術責任者のピエトロ・ザンペッティの管轄。モデナには、エステ家の財宝があり、その避難場所として決めたのが、グイリア城である。
ザンペッティもまた、ラヴァンニーノやロトンディと同様に、「最重要作品」を避難させたあと、教会所蔵の作品を救うために奔走する。
だが、ラヴァンニーノやロトンディのように車がなかった。ザンペッティは、なんと、26キロ先のレッジョエミリアや、40キロ先のボローニャを、自転車で駆け回り、作品を避難させていた。平時でも大変な道なのに、砲弾をくぐり抜けながら、必死で自転車で走り回っていたザンペッティは、疑う余地もなく、もうひとりの英雄である。
ボローニャ
フランチェスコ・アルカンジェリ。美術史家。反ファシストの立場を取ったために、同僚や友人と共に投獄させられ、戦火で自宅を焼失してしまう。
職を失い、家も失ったアルカンジェリは、レジスタンスとともにユダヤ人を救出し、ボローニャの美術責任者であるアントニオ・ソレンティーノの指示のもとでは、ノエミと同様に、マッジョーレ湖に作品を避難させる。
ボローニャは、現在でも、地理的に北と南を結ぶ重要な地点にあり、戦時中は集中砲火が浴びせられる。アルカンジェリが作品を避難させた直後に、最も壊滅的なダメージを受けることになる。
ザンペッティ、ソレンティーノ、アルカンジェリが動かなければ、現在すでに焼失してしまったであろう作品は数えきれない。
ジェノヴァ
ジェノヴァには大きな港があるので、爆撃の対象となり集中砲火を浴びる。
イタリアで最初に大被害を受ける都市がジェノヴァで、1940年6月14日の英国軍による空襲では、建物は崩壊、多くの人命が失われる。
ジェノヴァ市の美術責任者アントニオ・モラッシと、芸術責任者オルランド・グロッソ。
作品は、赤の宮殿(現在は美術館)や白の宮殿と呼ばれる建物、田舎の住宅の地下などに避難させるが、1942年10月22日の2度目の大きな空襲で、避難された作品の安全が保障できなくなり、彼らもやはりマッジョーレ湖へと作品を移動させる。
焼け野原同然のジェノヴァからトラックを手配し、山を越えマッジョーレ湖へ向かう道中はどんなに大変だったであろう。
1874年から徐々に増え続けた教会や重要文化財が、赤線が示すように1940年の爆撃によって、半数が破壊されてしまう。作品を救出し、四輪車にて1945年までに別な場所へ避難していることがわかる。
ナポリ
ヴェスビオ火山を背景にティレニア海が広がるナポリは「ナポリを見てから死ね(Vedi Napoli, e poi muori.)」という言葉がある通り風光明媚な美しい街。
この美しい街も、大きな港があるために、ジェノヴァ同様、戦争時には爆弾の集中攻撃を受け、大きな被害を被ることになる。
ナポリのあるカンパーニャ州の美術責任者ブルーノ・マラヨリも、他都市と同様に作品を避難させる。ナポリは、1734年から1860年まで、ブルボン家がナポリとシリチアに王国を築いた歴史があり、国宝級の作品を数多く残している。ポンペイなどから運び込まれた、古代ローマ時代の作品を所蔵するのもナポリである。
マラヨリは、トラック12台、作品数にして59,410点を避難させる。避難場所のひとつが、車で2時間ほど北上したところにあるモンテカッシーノ修道院である。
この修道院は、第2回目にも登場している。修道院から他の場所へ移動する道すがら、カポディモンテ美術館所蔵のティツィアーノ作の「ダナエ」が、ゲーリングが率いるドイツ軍に奪われてしまう。
モンテカッシーノ修道院は、現在でもイタリアが心の痛みを抱える場所である。ドイツ軍が隠れているという、偽の情報を掴んだアメリカ軍が爆弾を投下し、完全に倒壊してしまう。
現在、イタリアのあらゆるところで修道院を見ることができるが、その最初の修道院が、ベネディクト修道僧が建てた、このモンテカッシーノ修道院。529年建立。
戦時に誤って爆弾が投下され、取り返しのつかない惨事に見舞われた建物や作品は多くある。その最もたるものが、このモンテカッシーノ修道院であろう。事故とはいえ、あまりにも大きい損失である。
シシリア
最後は、シリリア島。ヨーラ・マルコーニ・ボヴィオ。1897年生まれ。シシリアで、女性で、考古学者。女性が職業に就くこと自体が難しい1900年代初期に、考古学者となった彼女は、女性進出のパイオニアの存在。
パレルモ考古学美術館館長、さらにパレルモとトラーパニの美術責任者に任命される。
パレルモを拠点に、トラーパニやアグリジェントに足を運び考古学の活動を続ける傍ら、シシリア初の国際女性協会を設立し、女性の権利や専門職の地位向上に力を注ぎ、男性社会に果敢に挑み続ける。
戦時中は、可能な限り梱包し、パレルモから20キロ先に位置するモンレアーレから、さらに山奥に建つサン・マルティーノ・デッレ・スカレ教会に避難させる。避難した直後の1943年の空爆で、パレルモの考古学美術館の南側は完全に倒壊してしまう。間一髪の救出であった。パレルモは、戦争で街の60%が壊滅し、現在もその傷跡が残る街である。
戦後は、破壊された作品の修復と美術館の再建に集中し、7年後の1952年に、ようやく新考古学美術館が開館する。
生涯で、67本に及ぶ論文を発表し、男性社会のなかで奮闘し、紀元前から紡がれている考古学を守った救世主である。
次回は、最終回をお届けします。
ここで紹介したのは、ほんの一部に過ぎません。ほかの街でも、ほかの国でも、国の大切な財産を守るために奔走した人達は、たくさんいたことでしょう。彼らの勇気ある行動により、いま、わたしたちは、美術館に足を運び、鑑賞することができます。私などは、彼らの活躍があったお陰で、美術館を案内する仕事に就くことができています。本当に、心からの感謝を捧げます。
最後までお読みくださり
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