プロローグ
感覚を刺激する人とモノに会う。
生活の中でもっとも刺激的なこととは何だろうか、と考える。
それは欲を満たすことかもしれないが、それよりも心を揺さぶられるような感覚(五感)を刺激する人とモノに出会うことではないだろうか。
あるとき、それは旅であり、出会った人との会話であり、
素敵なモノを見つけることであり、何かを食べることだったりもする。
そこにはセンスとスキル、感性と技能が結びついて、人の心を動かす「カタチ」があるのではないかと思う。
ART OF LIFEは、僕自身の旅と食と人との出会い、巡り会ったモノについて記すことから始めてみよう。
丸元淑生さんと出会う。
僕が丸元先生に初めて会ったのは、1994年10月27日だった。先生の料理書を手にしたのが1990年なので、お会いする前から料理の師匠であったのだが、正式には料理書の撮影が始まってから、なんとなく弟子となった。丸元さんを小説家として先生と呼ぶ人も多いが、僕は料理の師匠として迷うことなく先生と呼んでいた。初めて会ったのは、赤坂プリンスホテルのロビーラウンジ「マーブルスクエア」というところだった。講談社から刊行される『シンプル料理②』という料理書の担当となり、それまで刊行されていた料理書を片っぱしから読み漁り、つくれる料理は試して打ち合わせに臨んだ。付箋だらけの料理書をぶら下げて、挨拶の後の開口一番は「先生、この写真、天地逆です」であった。
丸元先生は、お会いした頃には大磯に住んでいて、その年の11月後半から『シンプル料理②』の撮影が始まり、僕は大磯へと通いはじめている。大磯にうかがった初日のこと、「ちょっと買い出しに行きますか」と言われて、僕は先生と外へ出た。坂を下るはずの道を山の方へと登っていった。水道山と呼ばれるその山のてっぺん付近から道無き道を歩き始め、木々の間を落ち葉にまみれながら下っていった。この山中行軍は一度限りだったのだが、そのまま麓の魚屋に無事にたどり着き、買い物を終えたことで僕の新弟子試験は終了したかのようだった。そして手帳には12月に6日間、築地の買い出しから大磯へ戻って撮影というスケジュールが残されている。この本をつくっていた時は、大磯や平塚の魚屋さんではなく築地で仕入れて撮影をしていたのだった。後に大磯や平塚の魚屋さんで食材を買って、大磯の丸元邸で料理をしながら撮影をする日々が続いた。
5冊の料理書と道具の本、そして文庫本。
僕が編集担当としてつくった本は、市販されたもので7冊、そのほかにサプリメントの冊子や食事指導の冊子などであったが、一緒に海外へのリサーチや買い出しに出かけたり、僕が編集するカード会員誌に寄稿をお願いしたりと、お付き合いは多年にわたった。僕が大磯に小さな家を借りて同様の環境のキッチンを持ったりしてからは、よくお邪魔してワインを一緒に飲んだりしていた。
2004年の冬に僕はこの大磯の家を引き払って東京に戻ったが、その後も年に何度かお目にかかり一緒にワインを飲んでいる。2006年秋には、新しく移った東京の僕の家にお招きして、丸元レシピの料理をつくり、その味に一応「合格」をいただき額の汗を拭っていた。先生のレシピは、家庭料理を目指したものだから誰もが再現できなければ意味がないのだけれど、シンプルなだけに味の決まる一点を見出すのはなかなか難しいところもあった。いまでは慣れ親しむと、それが自分の家の味になるのだと思っている。
翌年の春、広尾の病院から電話がかかってきたという伝言を聞いた。その主は「丸元さんとおっしゃっていました」という。慌ててその番号に電話をしてみると「やあ、お久しぶり。僕はガンになって入院しているんだよ」と先生が言った。その後お目にかかると、ご自身の病状と治療方法についてとつとつと説明された。おそらくその選択はベストであったと思う。「できればレシピを1冊にまとめておきたいんだ」と言われて僕は企画書を書いた。その年の秋、ご自宅で療養中の先生のお見舞いに企画書を持ってうかがった。企画書に目を通して「これでいい。しかし僕はもう撮影をする体力がないんだ。あとはおたくに任せる」と言われ、僕は「喜恵さん(お嬢さん)にお願いしましょう」と言って同意を得たのだった。
それ以降、お目にかかることはなかったが、ふと心配になり旅先の香港から電話を入れた。奥様のサナエさんが先生の耳元まで電話を持っていって「パパ、遠藤さんから電話よ」と伝えてくれた。もう話すことはできなかったが、声を出して聞こえていることをわからせてくれた。しばらくして喜恵さんから先生の訃報が届いた。僕は葬儀にうかがい、ご家族から弔辞を仰せつかり、お別れをした。
食べることと生きること。
葬儀では、サナエさんが先生を送る詩を朗読した。プエブロ・インディアンの詩は、その生き方と死に方、死生観が記されたものだった。丸元先生は著書『地方色』(1990年 文藝春秋刊)〜今日は死ぬのにとても良い日だ〜の中でその詩を引用している。その直前にある文章と一緒にちょっと引いてみた。そこに丸元淑生という人の死生観「食べることと生きること」を見ることができる。
どういう食事が健全なものであって、いかにすればそれを毎日とることができるか、といった事柄を追求している立場にすれば食事に気を配るのは当たり前だが、それで長生きをしようとは思っていない。命を粗末にしてはならないと思っているだけだ。少なくとも食事が原因で病気になったり、寿命を縮めたりすることはないように務めているのである。
その心掛けなしには、なかなか畳の上では死ねない時代である。それにまた、食事というのは毎日の積み重ねで、長くつづいてはじめて効果があらわれるものであるから、畳の上で死ぬ準備は相当早くから始めておく必要がある。
そういう厄介なことなら、もう病院で死んで構わないという人が大多数だろう。だが、私はここであるインディアンの詩を思い出す。アメリカ、ニューメキシコ州、タオスのプエブロ・インディアンの詩である。
今日は死ぬのにとてもよい日だ。
あらゆる生あるものが私と共に仲よくしている。
あらゆる声が私の内で声を揃えて歌っている。
すべての美しいものがやってきて私の目のなかで憩っている。
すべての悪い考えは私から出ていってしまった。
今日は死ぬのにとてもよい日だ。
私の土地は平穏で私をとり巻いている。
私の畑にはもう最後の鋤を入れ終えた。
わが家は笑い声で満ちている。
子どもたちが帰ってきた。
うん、今日は死ぬのにとてもよい日だ。
Many Winters, Nancy Wood, Doubleday
その後、僕は大磯の丸元邸で多くの仲間の力を借りて喜恵さんの料理書『野菜と魚の栄養ごはん』(2009年 講談社刊)を製作した。
この原稿は、編集と料理の師であった丸元淑生さんと出会って25年になる年に書いたものである。料理のフィロソフィーは、お嬢さんの喜恵さんが引き継がれ、お住まいの鹿児島で、手に入れた食材で毎日の料理をつくり、ご自身の感覚を活かしたライフスタイルの中でいまも活かされている。
僕には何ができるのだろうかと考える。絶版になってしまった丸元淑生レシピ集から、自分が20年以上作り続けているレシピを紹介することがひとつ、丸元淑生が料理とレシピに思いを馳せて歩いたであろう足跡を辿ることがひとつ。そして自分自身が感じたことをできるだけシンプルに伝えていくことが、いまできること、一番やりたいことではないだろうかと思う。
すっかり記事の更新が止まってしまって数年が経ち2020年の夏を迎えようとしている。コロナ禍で、移動の自由が制限を受けることとなり、旅はとてつもなく貴重な体験であることが、より一層強く感じられるようになった。
仕事も生活も、先の見えないときに、新しい仲間の力を借りながら、また書い始めようと思い、その場をHPからnoteへと移し、書き始めることにした。まずはプロローグに続けて、数年前に書いた記事を掲出させていただくことにする。
時代とともにさまざまに価値観は変化するかもしれないけど、本質的な部分は大きくブレたりしないのではないだろうか。そんなことを考えながら、「生きる術」を拝す言葉をつむぎたいと思う。
VOL.00 31TH.AUG.2016初出/11ST.JUN.2020 加筆
遠藤一樹(えんどうかずき)
株式会社イーター 代表取締役
プロデューサー、編集者、コピーライター、ライター
1961年、横浜市生まれ。桑沢デザイン研究所卒業後、デザイナーから編集者となる。『ホットドッグプレス』編集部を経て、いとうせいこう氏らとプロダクションを設立し、取締役を務める。多くの雑誌・書籍制作、広告制作を経て、1996年に制作プロダクションEater(www.eater.jp)を設立、代表取締役に。雑誌『asayan』を立ち上げ編集し、後に男性ファッション誌『HUGE』をプロデュースして創刊から10年間(2013年12月まで)制作を担当する。現在は、コミュニケーションツールやカタログ制作、ブランディングなどに携わる。もちろん編集と執筆も日々続けている。1994年から担当した丸元淑生氏の料理書、書籍は7冊。食に対する考えとライフスタイルに大きな刺激と影響を受け現在に至る。TCC会員(東京コピーライターズクラブ/1998年新人賞受賞)。