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【父方ルーツ その8】 ぎゅっと人生が詰まってる✨ミステリーは深まるばかり
祖父と祖母は、いとこ婚。
そこから始まった私のルーツを辿る時空を超えた旅は、現代と昭和、大正、明治と行ったり来たり。
さて今回もまた時間旅行を始めましょう。
前回は父方祖父の両親である、工藤ファミリーの北海道移住について触れました。
工藤金治・リノの北海道移住のお話はこちら↓↓
続いて父方祖母の両親、曽祖父後藤兵蔵・ミサ ファミリーの北海道移住についてもお話ししたいと思いますが、その前にもう少し兵蔵の背景を考察すべく、この戸籍を深掘りします↓↓
名前の不思議
曽祖父後藤兵蔵は後藤長之助・サキの二男として明治21年秋田県山本郡に生まれました。
まずは兵蔵の家族構成を戸主長之助の戸籍で再度整理しました。
父 後藤 長之助 嘉永2年生まれ
母 サキ 嘉永6年生まれ
祖母 チヨ 文化6年生まれ
長女 リノ 明治10年生まれ
二女 キヨ 明治13年生まれ
長男 兵吉 明治19年生まれ
二男 兵蔵 明治21年生まれ
三女 シハ 明治24年生まれ
三男 鶴松 明治26年生まれ
四男 長一 明治28年生まれ
こうして改めて並べてみると、気になることが見えてきて、またまた話題が脱線してしまいますがご了承ください。
注目したのは男児のお名前。
長男と二男は「兵」を、四男は「長」を使っています。
いわゆる通字というものでしょう。
この家では長之助の先代までが長兵ェを襲名していることからも「長」がそれにあたると思うのですが、なぜか「長」をもちいているのは四男。しかも四男なのに数字の「一」をつけている。これは何かあるのでしょうか??
そしてなぜ長男・二男の二人が「兵」なのでしょう・・・
名前には大切な家族の歴史と想いが詰まっているはずです。
後々の考察のためにここにも付箋をしておきましょ✨
やっぱり嫁家督と養嗣子!
工藤金治とリノの結婚から“嫁家督”と“養嗣子“を初めて知ったわけですが、その後地元の郷土史家の方にお話を伺う機会があり、やはりこの村では家の繁栄も見据えた姉家督を積極的に行っていたとのことでした。
姉家督とは弟長男がいたとしても、第一子である長女が婿をとり家を継ぐというもので、真面目な婿殿の存在から家の繁栄を期待してのことだったようです。
長之助が家督相続したのは明治13年と記載がありますのでおよそ30歳の時に家長となったようです。
姉家督を重んじていたとのことでしたが、長之助の続柄は亡父長兵ェ長男とあるので、養嗣子ではなく実子です。
ではその前の代はどうでしょうか。
長之助の母チヨは文化6年(1809年)生まれ、没年は明治40年ですから98歳というかなりのご長寿さん。
この戸籍の中で長生きしてくれたおかげで様々な情報を得ることができました。
チヨは亡祖父長兵ェの長女と記載があります。
祖父というのは戸主長之助から見た続柄なので、長之助の祖父ということであり、私にとってひいひいひいひいおじいちゃん(?!)六世の祖父ということになります。ん?あってる?(笑)
長兵ェの長女ということですから、長之助の父である先代の長兵ェは婿養子だったのでしょう。この代でも姉家督であったことがうかがえます。
屋号…ということでよいのか?
話題は前後しますが、チヨの続柄により長之助の父も長兵ェ、祖父も長兵ェであることがわかりました。
きっとその前もその前も長兵ェということが推測され、この家は長兵ェを代々襲名してきたのでしょう。
では長之助はなぜ長兵ェではなかったのか。
調べてみるとこんな記事がありました。
明治初年の改名
明治3年9月、平民に名字を許されたが、それと前後して一部の名前が禁止されたことはあまり知られていない。明治2年からの太政官指令、あるいは布告は、しばしば名に国名や昔の官名を付けることを禁止した。その代表的なものは、明治3年11月19日の太政官布告第845で、「国名並びに旧官名をもって通称にあい用い候儀停(とど)められ候こと」となっている(高梨公之『名前のはなし』)。
国名とは武蔵(むさし)・越前・但馬(たじま)など、旧官名とは外記(げき)・左京・主税(ちから)などで、これらは武士階級の名前であるが、このほか、何兵衛・何衛門・何助の名も旧官名に入るのである。律令官制では、「左・右兵衛府」「左・右衛門府」は宮中などの警備をつかさどる役所の名称であり、「助」 は各省の次官の官名であった。しかし、前記の布告はあいまいで、府県によって解釈が違い、全国的に統一されていなかったようである。
出典:湯梨浜町ホームページ内 明治維新の変革
このように、明治3年に農民が苗字の使用を許されたと同時に〇〇衛門、〇〇兵衛(ェ)などの名前の使用禁止されたことにより、長兵ェの襲名はこの代でストップしたものと考えられます。
地方によっては改名を行なったケースもあるようですが、長之助の家督相続はこの布告後の明治13年ですので、長兵ェを襲名しなかったのでしょう。
現代につながる戸籍ができたのは明治になってからのこと。
農民は苗字を持っていなかったという説もありましたが、持っていなかったのではなく時と場合に応じて名乗ったり名乗らなかったりしただけで、苗字は確かに存在していたそうです。
とはいえ日常的には〇〇村の長兵ェと屋号を使っていたことでしょう。
他にもこの集落には数件の同姓宅がありますが、それぞれに屋号があったと思われます。
ちなみに後藤家は農民ではありますが、名字帯刀が許されていたという口伝がありますので、これについても更なる調査をしたいと思います。ここにも付箋を✨
謎の養子交換
嫁家督において、婿を養嗣子として迎えるという事例についてはすんなり納得できました。
けれどもこの家には他にももう一人養嗣子が存在した上に、実子二人(長男と二男)が養子に出されており、どちらも後藤長右門家との出入りです。
両家はよほど結びつきが強い関係ということでしょうか…
まだまだ謎はつきません。
次回に続きます・・・