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★『ポケット・フェティッシュ』松浦理英子

自らの内に在る愛を知り、愛し続けられる人は強い。

寡作で有名な、松浦理英子の新刊を入手したので、まずは旧刊を読み直して予行演習を…と思い、昔気に入って読んだ覚えのある本を手に取ってみた。

『ポケット・フェティッシュ』松浦理英子

松浦理英子の作品が好き、というとかなり変わった趣味をお持ちで…と思われるかもしれないが、今でも新刊が出たら、中身を見ずに迷わず購入する、
私にとっては数少ない、即買いの現代日本の女性作家だ。

彼女の作品の魅力は、なんといっても、その独自のモノの観方、世界観かもしれないが、実は私は彼女の作品のそこの部分にはそれほど共感していないかもしれない。

私が彼女の作品に惹きつけられるのは、もちろん、同時代的な共感も底にはあるのだが、それ以上に、彼女が自分自身の独自の感性や価値観、ものの観方について語るとき、その言葉が華麗なまでに切れ味鋭く、くっきりとその内容を伝える意志を持ち、しかもそれに成功していることに由来する。

それだからこそ、その感性や価値観の内容を、必ずしも共有しない人間(私もその一人)をも、強く惹きつけてやまないのではないだろうか。
自分の意識や感性の中心を、明確に自覚している人は作家といえども、案外少ないのではないかと思う。

もちろん、自覚していることのほうが価値がある、ということではないが、少なくとも自分の感性に愛着をもったほうが、もっと楽しい内面生活を送れるのではないかという気はする。
そして個性的でありながら、自らの個性を十分に理解し、受け入れている人に出会うと、なんだか救われた身持ちになる。

個性というものは、そのままでは一種の脅威だから、どんな些細な点でも、大多数の人とは違うことを身に着けていたり、支持していたりすることは、それだけで、大多数の側から(良くて)敬遠、(悪くて)攻撃の対象になることを覚悟しなければならない。

しかし個性が非個性に向かって、その因果を明確に語る言葉を有したとき、それは脅威としてではなく、興味さらには強い羨望さえ感じさせるものになるのではないだろうか。

松浦理英子は、私にとってまさにそういう羨望の対象としての作家だ。

彼女は、自らの感性や嗜好を、万人に理解してもらおうなどとはあまり思っていないだろうが、彼女が自らのそれを、言葉によって正確に語り表わしたとき、その内容に対する賛同より先に、

「こういう世界があったのか…!」

という驚きと共に、その世界の魅力がリアルな<肌ざわり>をともなって意識され、そして徐々に感動が湧いてくる。

この『ポケット・フェティッシュ』という作品は<誘惑、もう一つの欲望世界への>という帯タイトルが示すように、おもに性的な感じ方・考え方の異相をテーマに綴られたエッセイ集だ。

もちろん、彼女の超個性的でありながら攻撃性が希薄な、ナチュラルとさえいえる感性は、小説作品において存分に発揮されるのだけれど、自らのお気に入りのアートについて語ったこのエッセイ集はそんな独自の道をいく松浦理英子の、全方位的な感性の源を示唆しているように思えてならない。

官能という感覚、快楽という情動が、他の誰かに捧げることを前提として表現されたり、ましてや隷属させられるものではなく、何よりもまず自分自身の大切な一部であり、本質的に自由で、自分でそれを楽しんでこそ!いう在り方を、このエッセイで彼女は力強く推してくれる。

それは言葉にすれば自明のことのように思えるが、現実の場面では、自分のもっともセンシティブな部分であり、嘘やごまかしが耐えがたい部分でさえ、違和感を感じながらも、周りに同調し、身近な他者の在り方に大きく左右されることは稀ではないと思う。

もちろん、そうすることで得られるものもまた、大きい場合もあるので、最終的にはそれもまた、「個人の選択の自由」ということになるのだろうが…。

松浦理英子が、自身の感性を、それが少数派であっても、肯定的に認識できる理由が、本書を再読して、少し理解できたように思う。

それはたとえ偏愛といわれても、自身が惹きつけられてやまない対象に対して、五感を駆使して愛で続け、その由来を自身の言葉で表現することで愛を確かめ続けているからではないだろうか。

自らの内に在る愛を知り、愛し続けられる人は強い。

 「毎日──どんなときでも──止むことなく」素描する、ということばは、
 呼吸をするように、あるいは心臓が脈を搏つように素描する、と言い換え
 ても差し支えないのではないか、素描しないでいるとヤンセンは呼吸をす
 ることもできなくなってしまうのではないか、素描をすることと生きるこ
 とが不可分であるような、感動的に倒錯した生理をヤンセンは生きている
 のではないか、と考えたくなるのである。(本文p94)

『ポケット・フェティッシュ』

彼女が敬愛する画家、ホルスト・ヤンセンについて述べた箇所を、彼女自身の表現に置き換えれば、呼吸をするように書く、言葉を紡ぐ、ということだろうか。

自身が好きなものを好きと認め、その源に遡り続けること──それがたとえ、自分で自分の体の痛む箇所に触り痛みを確認するのに通じる歓びであったとしても、それが本当の自分の感性を実感する方法であれば、それはたしかに自身の生きる源であるに違いない。

本書は30年近く前の初版ではあるが、年月を経て今回再読してみて、自分の感性の<肌ざわり>を探す手がかりを、いまなお与え続けてくれる、ラディカルなエッセイ集だと感じた。

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