ヨーガスートラ第1章(三昧)ノート その15
ココロについては様々な比喩がありますが、よく使われるのは「水面」という例え方。
澄んで静かな状態であれば、ココロは対象(外界の事物から自分の内面の様子まで)を正しく映し出します。
でも、これがナカナカに乱れっぱなしで参っちゃう。。
何回も出てきてるので飽きたかもしれませんが、”サットヴァ” ”ラジャス” ”タマス”
ココロの基盤は3つのグナの流動性に竿を挿してますから、その本質として絶えず移り変わるのが当たり前。
僕達のココロ模様はだいたい以下の3つを行き来しています。復習になりますが
①ラジャスが優位の時は【クシプタ 落ち着きのない心】
波立った水面みたいな感じのココロです。
忙しいからじっくり腰を据えている暇がないよって。。
どういうふうに忙しいかって言うと、あれが欲しい これが欲しい あれしなきゃ これしなきゃ。
ひと時も休まらない。
②タマスが優位の時は【ムダー 惑わされた心】
痴呆状態のココロ。やる気がないとか。つらい悲しいとか。考えるものイヤとか。
否定的な感情で淀んで曇っています。
濁っているからココロの水面は対象を歪めて映し出すことしか出来ません。
③タマスとラジャスが交互に優勢化する【ヴィクシプタ 散漫な心】
不安定なココロ。忙しいか疲れたのどっちか。
「最高。楽しい~♪」ってはしゃいでたと思ったら、5分後には「生きてる意味ゼンゼンっ分かんないっ。」とか。
外の世界の状況に反応しすぎて落ち着きません。
いたずらに石を放り込んでいる水面のようなココロです。
でね。
このままじゃ人としてマズいわい。。とワレワレはココロを整えることを望むようになる(としましょう。)
水面の波が静まることによって鏡のように「認識した対象をありのままに映し出せる」ようなココロの状態を目指す。
煩悩に振り回される上記3つのココロ模様を超えて④サットヴァ優位の【エカーグラチッタ 一点集中の心】を目指すための努力をしていく。
そこから最終的にはココロの働き=水そのものすらも消えていく⑤【ニローダチッタ 止滅された心】へ。
そうして初めて私たちは自己の本質に落ち着くことができますよ。
それがヨーガの目的なんですよ。が、これまで解説したことのおおざっぱな内容。
今回から見ていくフレーズは
「じゃあ。そのためには何をしたらいいのか?」
「どのような態度でヨーガを学んでいけばいいのか?」
という実践するための心構えを説く内容となります。
<Ⅰ-12>
アビヤーサヴァイラーギャーヴィヤーン タンニローダハ
「修習(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって、それら(チッタの働き)は止滅される」
基本とするべき心構えは、大きく分けたら2つになります。
◇修習(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)
”修習”とは英語でいう”プラクティス”。
繰り返しの練習です。
”離欲”は”デタッチメント”。
無執着とか無頓着という意味。
この2つはヨーガを実践する上での最重要単語です。
ヨーガを成功させるための鍵は、この”アビヤーサ”と”ヴァイラーギャ”に集約される。
この二つを組み合わせることで、チッタブリッティ(ココロの波)を確実に鎮めることができるのです。
ハタヨーガ(カラダを使うヨーガ全般のオリジン)の”ハ・タ”も”アビヤーサ”と”ヴァイラギャー”に当てはめていいんじゃないかな。
Ha・ Thaとは”陰と陽”。つまり”太陽と月”を意味します。
太陽に象徴される「動」のエネルギー。月に象徴される「静」のエネルギー。
”アビヤーサ”は「修習」。
積極的な活動への意欲だから「動」の働き。
”強靭さ”を好む太陽の態度。
”ヴァイラギャ”は「離欲」。
活動によって生じた様々な結果に対して執着をしないという「静」の働き。
つまり”静謐”を好む月の態度です。
相反するかに見える2つのエネルギーをヨーガ(コントロール、さらには統合)していくことで高みへのステップを踏むのがHa・ Thaを冠るヨーガの方法。
自分の心は今”ラジャス”と”タマス”に絶えず揺れ動く”不安定さ”にある。
それは身体や呼吸の状態として”鏡うつし”のように現れていることに対して”気づき”を持つ。
その上でカラダや呼吸を力強く扱う。その逆に完全にリラックスさせる。
といった操作に全集中を傾ける。さらには生じてくる結果(美容健康免疫さまざま)へと生まれた執着をも手放していく。
これがカラダや呼吸、それに繋がる心そのものまでを”サットヴァ”の状態へと純化させていくのです。
仏教にある「中道」という言葉に当てはめても良いかもしれません。
真逆のベクトルにあるかのような2つの活動に平等に注意深くなることで”チッタ”の働きを”サットヴァ”優位に保つことができる。
さらに先には「それらは止滅される」にまで至るのです。
この”アビヤーサ”と”ヴァイラギャー”はバランス感覚とも言えます。
もしも、このどちらか一方だけを行うならば、それをココロを極端な方向に導いてしまう可能性があるのです。
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