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会社員時代の話をもう少しと、キャリア支援への思い

先日、自己紹介で社会人になってからの略歴を書きました。

この中で会社員時代と駐在妻時代の悲喜こもごもについて軽く触れましたが、もう少し、私がどんな壁にぶち当たり、なにを考えてきたのかを書くことにしました。

近いうちに個人でもカウンセリングをはじめる予定なので、私の経験や人となりを知っていただくためにも、もう少し紹介させてください。

前編は会社員時代の話。


社会人生活のはじまりは意気揚々

2004年、就職氷河期の真っ只、大手のメーカーに就職しました。就活はそれなりに苦労しましたが、当時の状況を考えると比較的スムーズに決まった方だと思います。

学歴も能力も特別なアピールポイントも大して無かったので、「よく受かったな」ってしばらく実感持てずにいました。内定後に「キャラ採用」があったらしいと聞いて「まさにそれだ」と。(もう、それしか思い当たらなかった)

ただ、我ながら、その会社への志望動機はかなりよく出来ていたと自負していたので(本心からそう思っていたし)、能力はともかく、ご縁と勢いとポテンシャルで採用してもらえたのだと思います。

入社式の1週間前、新入社員研修の案内を見て唖然としました。持ち物に、布団とダンボール3箱までと書いてあったのです。何事かと思い、その時初めて本社が大阪であることを知りました。「そういえば最終面接も関西弁だったな。大阪行ったことある?と聞かれて、USJに行きましたってのんきに答えたな。」なんて思い出して、恥ずかしくなったほど。

でも、自分は東京採用だし、研修終えたら地元に戻ってくるだろうし、アフター5は東京で遊ぼうみたいなノリのまま(ドラマの見過ぎ)、入社式前日に意気揚々とのぞみに乗り込んだ日のことを今でも鮮明に覚えています。

それから8年大阪から出られず、その後も転勤族になるとはつゆ知らず…。


年中無休で悩んでいたけど、なんとか頑張れた

仕事は法人営業。(見方によっては)競合とも言われるお客様に自社製品を販売する仕事。特定の顧客を任され、会社対会社のお付き合いを窓口としてとりまとめる役割でした。

これがまた大変で、扱う製品も難しければ、やることも難しい。しかも舞台は『商人の街 大阪』。お客様は当然ながら、社内の人間ですら気難しい。配属当初は、飛び交う関西弁にいちいちビクビクしていたし、あちらではフツーの会話らしい「自分、どないすんねん」に凄まれ気分になり半泣きの日々。

それでも、さすが『義理と人情の街 大阪』。海の近く出身のノンビリ娘でも、なんとかやっていけるもんですね。仕事は希望通りじゃなかったし、本当にきつくて毎日「明日辞めるって言おう」と思いながら過ごした時期もありましたが(コピー機の前で倒れたらどうなるかな?とか)、会社と先輩と同期が大好きで、とにかくそれだけで、なんだかんだ辞めずにずっと働き続けてこれました。

大阪のお姉さん、おっちゃん達にもまれながら、笑いと涙を繰り返して働いた日々は、今でも大切な思い出であり、仕事力の基礎であり、キャリアの原点です。

相変わらず仕事内容は好きにはならなかったけど、働くこと自体は性に合っていたし、慣れてきた頃に昇格もさせてもらえたし、産休育休を取ってワーママ経験もしました。

ワーママ界隈では数年前から『マミートラック』が話題になっていますが、私が産休育休を取った2012年は、まだ「やっと産休育休が取れるようになった」という時代。

正直なところ、「小さい子供を育てながら仕事復帰できるだけでありがたい。時短でやれる範囲の仕事ができれば充分です」という人が多かったと思います。本音はともかく、「やりがいとか将来のキャリアビジョンとかは、とりあえず置いておこう。まずは日々やりくりできれば万々歳」みたいな。

そいういう意味では、当時の勤務先には働く子持ち女性も多かったし、ワーママへの制度も理解もかなりあったので(無理しなくていいよって方の理解)、「あー仕事は辛かったけど、なんとかここまで働いてこれて良かったかも。ちょっと楽させてもらおうかな。」なんて心持ちでいました。

そんなこんなで、仕事や将来に悩みは抱えつつも環境も条件も良いからと時短勤務を続けていた頃、転勤族の夫についに海外赴任の話が来たことを機に、いろいろ考えた末についに退職しました。
→この時の「いろいろ考えたこと」は改めて書きます。


悩みながらも10年は働けた、でも次の30年は見えなかった

私にとって、いわゆる職歴はこの10年だけ。それでもこの期間は、私の社会人として、人間として、すべての基礎になりました。いまでも当時の会社とお世話になった皆さんには感謝しています。

ただ、その10年間、日々の業務はそれなりにこなせても、悩みが尽きることはありませんでした。

そして、いま振り返ると、どの悩みも結局は「自分のキャリアビジョンが描けていなかったこと」に尽きるなと。

  • 華々しくやりがいのありそうな部署に配属された同期を羨ましく思いながら、こんななずじゃなかったと悩む新人時代

  • もう我慢できない!と思いながらも、転職する勇気もスキルも手段も無く、ただ悶々とし続けた若手時代

  • 後輩には「色々あるけど頑張ろう!」と励ましておきながら、自分はこの先どうすんのって自問自答し続けた中堅時代

  • ワーママ界隈でのバリキャリ/ゆるキャリ論争を横目にみつつ、「好条件で働けるんだから贅沢は言いません」ってところに治まっていたワーママ時代

自分の生きてきた時代背景とか考えるとキリがないけれど、それでも、(少なくとも今41歳の私は)、就職氷河期を乗り越えてやっと内定もらった会社をそう簡単に辞めるわけにも行かなかったし、転職なんて身近じゃなかったし、自分のペースで働くなんてそんな都合の良いこと言えないって思っていたし、自分のキャリアを自分で考える意識も術も身に着けていませんでした。

だから、昨今のキャリアに関する考え方やトレンドなんかを見ると、「なにか他にやれることあったんじゃないの」とか「もう少し柔軟に考えたら良かったのに」とか「思い切って踏み出していたら何か変わっていたかも」と、後悔に近い気持ちになることもあります。

でも、もうそれは仕方のないこと。今はそうかもしれないけど、当時の私はそんなこと知らなかった。

「知らない中でも、私なりにもがきながらやっていたんだね、よく頑張っていたね。」って。これからのことを考える前に、まずは過去の自分を認めてあげるところからはじめたくて、今日、noteに会社員時代の話を書きました。


同じ時代を生きてきたミドル世代の支援に活かしたい

もうひとつ、noteに会社員時代のことを書いた理由は、

同じ時代を生きてきたミドル世代のキャリアについて(特に専業主婦や転勤族妻)、心からの共感をもって話を聴き、ともに考えていきたいので、「私はこういう時代を生きてきた人です」ってお伝えしたかった。

キャリアに関する記事を読んでいると、ミドル世代について「一社しか経験が無い人は使いづらい」とか「専業主婦が長いと仕事が見つからない」とかネガティブな話をよく見ます。当事者としては悲しくなりますが、きっと大部分はその通りなのでしょう。

「やりたいことを仕事にする」とか「キャリアビジョンを持つ」とか、それが必要なのはわかっている。でも、それがなくても、なんとかここまで働いてきた世代。むしろ「与えられた仕事を自分のミッションと捉え、ただひたすらそれに邁進する。今いる会社でのキャリアビジョンを描け。」と言われて社会人になった世代。

でも、嘆いていても仕方ない。それでも頑張っているミドル世代もいるし、自らを時代にあわせて変えてきた人達もいる。それはそれで、「そういう時代を生きてきたことを認めて、今からできることやれば良い」と、思うようになりました。

私は、人事も人材業界の経験も、対人支援の経験もまだありません。あるのは、営業としてとにかく話を聞いてきたことと、自分の時代を知っていることだけ。

キャリア支援の知識や経験、テクニックはまだまだ及ばないけれど、まずは、クライアント(同世代なら尚更)が置かれている状況を、時代背景と共に聴いていきたいと思っています。そして。心からの共感と傾聴で話を聴き、今からやれることを一緒に考えていきたいと思っています。

そのために、自分はどういう時代に社会人になり、どういう経験をしてきたのかをnoteを通じて整理させてもらいまいた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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