「この道」 古井由吉

 講談社文庫の古井由吉連作小説集、「この道」の表紙を開いた。
 開いたのは表紙であって、内容に到達してはいない。

 書店でたまたま見かけて手に取ったのだけれど、講談社文庫なので本はフィルムに包まれている。背表紙と帯の文言だけ読んで、中身がどんなものか確認しないまま買って帰ってきた。
 古井由吉、ずっと前に読んだことがある。なんだか端正で静かだった印象だな。帯にも「精緻に」って書いてあるし。きっと好みの文章だ。と、そう思ったのだった。
 小説の筋など何も頭に残っていなくて、ただ読んだ時の感触だけを覚えている。そういうことは、よくある。それで読んだと言えるのか。どうだろう。胸を張って読みました、とは言えないのかもしれない。
 でもその感触は、おおよそは正しく記憶されている。

 ついさっき、次に読む本を求めて、積読の山の中から目に付いたこの一冊を抜き出して、フィルムを破った。それから表紙をめくり、目次のタイトルの並びを見た。
 一行ずつに、心を撃ち抜かれてしまった。
 そして、中身を読みもしないで目次だけで感想文を書く、という暴挙に出ているのがこの文章です。
 中身を読めばもちろん何かが得られ、しかし同時に何かが失われるもので、この場合失われる何かとは、初見の情動だと思う。

 たなごころ
 梅雨のおとずれ
 その日のうちに
 野の末
 この道
 花の咲く頃には
 雨の果てから
 行方知れず

「この道」の目次より

 たなごころ、って最初の一語で心はすでに持って行かれた。これをタイトルに選ぶのか。
 ぅわぁ…、と情緒のないことを胸の裡でつぶやいて、次の言葉を、その次の言葉を追う。
 なんてはかなさの漂う言葉の列なのだろう。
 漢字とひらがなの混ざり具合も絶妙だなぁ。
 淡くて美しいこと、ひとことでなんて言うんだったっけ。
 なにか、ふさわしい言葉があったような気がするのに、記憶の中のどこかに隠れていて、気配はあるのに取り出すことができない。

 ところでこれ、今は横書きゴシック体だけど、縦書き明朝体のこの文字列は、これとは違う何かを醸し出している。
 横書きも縦書きも違和感なくできて、どっちにするかで与える印象も違うとか、日本語ってややこしくておもしろいよね、とかも考えつつ、右から左へ、上から下へ、順番を入れ替えたりしながら、行ったり来たりする。
 どこをどう読んでも、端正で静かで精緻で、美しい。

 もう目次だけでもいいな。
 思わなくもないけれど、このあと本編を読みます。
 なぜこの順に並べているのか。なぜ「この道」を表題にしたのか。そういうことも、読めばわかるだろうか。

 などと書いているうちに、探していた言葉を掴まえました。
 幽玄。
 たぶんこれだと思う。でもなんか、せっかく探り当てたけど、ひとことにしてしまうのは、それはそれで違うな…。それともこれじゃないのかな。読みながら、もう少し探してみようと思います。

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