世界は積読に溢れている 10

 でも、本が並んでいるのを見るだけで心は動く。

 本なんて興味のない人の目には、文字ばかりが詰め込まれた、何の面白みもないものに映るのだろう。全部同じように見えているのかもしれない。
 しかも読まないのに買って積んどくとか、まじ意味わからんですよね。
 積読する人の自意識は若干ややこしくて、どれだけ積んでも、別にコレクションしているつもりはない。ものごとはなんでも過剰なだけで心に響きがちと思うけど、集めて並べて眺めるだけで幸せなコレクションとは、心持ちがちょっと異なっている。基本的にぜんぶ読むって思っているのだ。
 本当に?というツッコミは、まぁちょっと横に置いといてもらって。気持ちはその通りなので。

 この世にあるすべての本を読み尽くすことなど到底不可能なのだと、人はいつ頃気付くのだろう。
 10代の頃に図書館か書店かの書架の隙間で、眼前に聳え立つ本の山脈を見ながら、一生のうちに読めるのなんて、このうちのほんの一握りなんだ、と思った絶望の記憶がある。
 それはいつどこで、というものではなく、少しづつ諦めていった象徴としての光景なのだという気がしている。

 世界に存在するすべての本を分母として、自分が読んだ本を上に乗っけると、その割合は加速度を増して小さくなるばかり。とてもじゃないけど、追いつくわけがない。
 手が届く本を全部読む必要なんてないんだけど。考えるまでもなく無理に決まってはいるんだけど。そこは何事にも過剰な10代なので。できるだけたくさん読みたいと、目論んではいたわけです。
 当然のことながら、書物全体の量なんて気にしないで、一冊ずつ読むしかないのだと、諦観に至ったのはいつだったかなー。読んだ本を読んでない本と比べても、多分あまり意味はない。

 図書館や書店とは比べるべくもない小さな部屋に、本を少しだけ積み上げて、それを一冊読み、もう一冊読み、減ってきたかと思った頃にはまた次が上積みされ、小さくても積読はいつまでもなくなることがない。
 世界のすべての本を読むのは不可能。読めばいいってものではない。それはとうに知っているけれど、読めるうち読めるだけは読むのでありました。

 読書や積読に対する並々くらいの気持ちを、文章にして全10回、少し過剰に積み上げてみました。
 noteの読まれない記事。これもある意味積読なのか。
 しみじみと、世界は積読に溢れている。

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