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ファイト村営病院

随分と昔の話になるが、私はとある山深い秘境に建つ、村営病院にいたことがある。


出勤初日。初めて診る象皮病や顔面麻痺、巨人症等々。奇病とも言える疾患の多さに舌を巻いた。奇病の多さもさる事ながら、その守備範囲の広さに驚いた。


山、谷を延々越えて、無医村まで出向いての訪問治療。たった一軒、一人の患者のためにはるばる県境まで車を片道一時間近く走らせて行くのだ。
同行させていただいた先輩が、
 「公立病院っていうのは、市民のための病院だから、採算は度外視なんだよ」
 と、苦笑いしながら寂しそうな表情を浮かべていたのが印象的だった。


 奇しくも時同じ頃、市民病院の医師不足や経営不振が全国的に問題視されていた。


 『市民病院が持つ、大将日の丸的体質が問題だ』と、イエロージャーナリズムがあたかも庶民の味方だというように吠えていた。


 採算を度外視しても患者のためにと奮闘している現場を無視して……
採算は病院を経営していく上で重要なファクターである事に違いない。


しかし、「血税を投入してでもわが村に病院を!」との地域住民の気持ちもよく理解できる。


相反する思想が同一に介在しているように思えてならない。理想に忠実に!住民のために!を繰り返していけば、当然のように採算は取れない。採算が取れなければ、医師を確保することすらできなくなる。


採算重視を表に出せば、無医村は捨てるのか!税金で運営しているくせに!と住民が憤慨するだろう。


理想に燃えれば、財政は困窮し、医師が離れる。


当然だが、高いギャランティーを提示すれば医師は集まる。しかし、その事で税収の少ない市町村の財政は逼迫する。


国立病院が独立行政法人となり、市民病院が私立病院に払い下げられている昨今。金銭に還元できない『思い』は、おざなりにせざるを得ない運命なのか?


休日も返上して、患者の家に訪問しているスタッフたちの思いは、『無償の愛』以外の何物でもない。


平和とは、単に戦争がなくて世の中が安穏とした状態というだけなく、皆が安心して穏やかな生活を送れることではないのかと思う。


真の平和は、人々の真心に抱かれて安らかな生涯を過ごすという事ではないだろうか。


『愛』では、病院経営はできない!と事務長あたりが顔を歪めるかもしれないが、『愛』をもってすれば、今では死語となってしまった『医は仁術』が復活する日が来るだろう。


75歳以上の後期高齢者が、数千万人単位でひと月百万円以上医療費を使っている現状を抱えたまま、団塊の世代が前期高齢者となった。


2015年問題を迎え、2050年まで、ノンストップで医療費は増大し続ける。


1.5対1で高齢者を若人が養わなければならない時代が目前に迫っている。


高齢者も若人も医療関係者も医療を利用するすべての人々が愛をもって、医療とかかわらなければ、ギリシャ危機同様、日本危機が来るのは火を見るより明らかなのである。


(*゜▽゜)*。_。)*゜▽゜)*。_。) ウンウン 


頑張れ町村病院。村人たちのために!


ヾ(>0<)ノフレーフレ〜

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