子どもらしくあるために大切なこと
紫陽花がまだ花をつけている7月の初めに、縁あって北鎌倉に期間限定移住をしている。
自然と人との境界が(ほぼ)ない古民家で、2歳半から27歳までの血の繋がらない仲間と寝食を共にしながら、拡張家族を味わっている。
@日曜日。
みんなが家にいる+最近ジブリ4作品始まったね!懐かしいね、どの作品が好き?と話が盛り上がり、
「そうだ、2歳児もいるし、トトロ観よう」となり、トトロを見た。
テレビがないので、ふすまに投影するトトロは、非常にエモ(※)かった。
※Emotional・感情が高まって心が揺り動かされる様
ナウシカやラピュタ、千と千尋は何度も観ているのだが、トトロはだいぶ久しぶりだった。8年ぶりくらいだろうか…高校生の金曜ロードショーで観たのが最後な気がする。
2歳児と観るトトロはいろいろと発見があった。
終始牧歌的な風景で、おどろおどろしいものも出てこないし、キャッキャして観るだろうなと思ったら大間違い。
嵐の音にギャン泣きし、トトロがあくびをすればギャン泣きし、猫バスにギャン泣きし、迫ってくるヤギにギャン泣きする。
テントウムシが出てくると泣き止む。
自分より大きいものや大きい音は無条件に怖い、という動物的な本能が垣間見れて、こんなに騒がしいトトロ鑑賞は初めてだったけれど、とても面白かった。
(か⤴みさま”ぁこわい~~~~(ToT)(ToT)(ToT)と泣いているときは、可愛いなと思いつつ、深いなと思った。そうだよね、神様って怖いよね。)
上記気づきも然り、たまたま今、拡張家族的な生活をしているからかもしれないが、「子育てへのエッセンスがめちゃめちゃ詰まっている!!なんだこれ!!子育て指南本か!!??」というくらい気づきがめちゃめちゃあったので、それを記してみたいと思う。
はじめに
言わずもがなかもしれないが、となりのトトロは、病床のお母さんのために田舎に引っ越してきた逞しい姉妹、サツキ(12歳)・メイ(4歳)が、クマのような狸のような不思議な生物・トトロと出会い、ひと夏を過ごす物語である。
一言でいうと、この作中は、サツキとメイの子どもらしさがもりもりと溢れたり、しぼんだりしている様子を描きながら、子どもに子どもらしく豊かな時間を過ごさせるためにできることとは。を大人に問うてくる作品だと思う。
1.良い子だねって言いすぎないであげたい
本作品の中の主人公は、私の中で断然サツキだ。
しっかり者のさつきは、小学6年生(12歳)。
家事を何でもこなし、ぐずる妹を適度になだめる良妻賢母感に加え、腰をかがめながら茂みの中を走り回るものすごい体力・生命力を持ち、病床のお母さんには手紙で事細かに家族や生活の様子を伝え、安心させようとする思いやりもある。
わがまま放題のメイとは大違い。
サツキだってまだまだ子どものはずなのに、小6にしてはやけに大人びた姿で描かれているところに注目したい。
お母さんのお見舞いに行ったとき、お父さんに対してお母さんは言う。
「あの子たち、見かけよりずっと、ムリしてきたと思うの。サツキなんか聞き分けがいいから、なおのこと、かわいそう。退院したら、今度はあの子たちに、うんとわがままをさせてあげるつもりよ」
幼い妹、忙しい父、病床の母、慣れない田舎暮らし、等が相まって
サツキは、「自分が家族を支えなければ」と、知らず知らずのうちにお姉さんになっていってしまったのだろう。お母さんはそれを感じ取っている。
とはいえ、全くサツキが子どもらしくないわけでもない。
大人びているとはいえ、「うわぁ~~ボロッ!!」と家に対して率直に言い放つし、メイと共にまっくろくろすけを威嚇する無邪気な一面もあるし、風が怖くて身を縮めながらお父さんとメイのいる湯船につかるシーンもある。
そうやって元気いっぱいの姿を見て、多分おとなは安心してしまうのだ。
「ああ、ちゃんと元気に、良い子に育ってる」と。
けれど、母親に何かあったかもしれない…と不安で押しつぶされそうになった時、一生懸命強がっていたサツキがガラッと崩れ落ちる。
メイに向かって
「じゃあお母さんが死んじゃってもいいのね!!
メイのバカ!!もうしらない!!」
と、ウルトラトラウマ級の言葉を投げつけてしまうし、その場から走って逃げ去ってしまう。
言った後、ものすごく後悔しただろう。
もし、あの一言がメイとの最後の言葉になってしまったら。
まだ、きっとどこかで泣いてる、どうしよう、私のせいだ。
メイが見つからなかったら、どうしよう。
そんな不安を抱えながら靴がつぶれるまで走り回り、最後にはトトロに助けを求めに行く。
メイが見つかり、
「馬鹿メイ!!!!!!」と言いながらも強く抱きしめるシーンの後、
猫バスが次の行き先をお母さんのいる「七国山病院」を示してくれる。
「お母さんのところに連れて行ってくれるの?
!!! ありがとう!!!」
ここのシーンでうっかり泣きそうになった。
はじめて、サツキが、自分が一番に、猫バスに抱きつくシーンなのだ。
トトロに会うのもメイが一番。
お母さんに抱きつくのもメイが一番。
バスから降りたお父さんに抱きつくのはメイと一緒。
でも、猫バスに初めて乗ったのはサツキだし、猫バスに飛びついて抱きつくのもサツキが一番。
自分はお姉ちゃんだからと一歩引いて遠慮していたサツキが、一番、になり、自分の特別を持てた感じがして、ちょっと泣きそうだった。
トトロや猫バスは、メイのためというよりも、サツキのなかの子どもらしさ・甘えていいよ・一番や特別を欲しがっていいよ、がちゃんと顔を出せるように来たのかもしれない。
どんなに聞き分けが良い子でも、どんなにしっかりしていても、
「しっかりしてるね」とおとなが甘んじてはいけない。
もしかしたらその言葉は呪いになってしまうかもしれないし、おとなとしては楽だし有り難いけど、子どもが子どもらしくいられる権利を早々に奪ってしまうかもしれないから。
親になったら気をつけよう、と思った。
2.誰かの役に立つ権利を奪わないであげたい
「この前もそうだったの…ほんのちょっと入院するだけだって…
風邪みたいなものだって…お母さんが死んじゃったらどうしよう…
もしかしたらお母さん… うわぁぁぁぁぁん」
井戸でおばあちゃんとサツキが話すこのシーン。このシーンがきっかけでメイは迷子になる。
お姉ちゃんが泣いているところをじっとみるメイは何を考えているのだろうか。
お母さんに会いたい、心配、トウモロコシあげたら喜んでくれるかな、一人で行けたらお姉ちゃんが安心するかな、私もお姉ちゃんを助けたい。
そんな気持ちだったんじゃないだろうか。
メイは4歳でもあって、とにかくなんでも「やってもらう」側である。
キャラメルも分けてもらう。
お弁当も作ってもらう。
髪も結んでもらう。
だから、サツキと一緒に同じようにお手伝いが出来ているときはイキイキしている。
自分もできるし、自分もみんなの役に立っている、自分もここにいていい。という感覚があるんじゃないだろうか。
実は、いま鎌倉には従妹(17歳)も連れてきている。
私にとって鎌倉の仲間たちは知り合いであり、友人だが、彼女にとっては全くの赤の他人で初対面だ。
初日、家に到着すると、住人が夜ご飯を作っていた。
「何かお手伝いありますか?」
「あー、じゃあコリンキー切っておいてもらえる?塩もみしてサラダにするんだ。ありがとー」
と、普通に仕事を任されたとき、驚いたし嬉しかったのだという。
遠慮されていない感じがしたから、はじめましてだけど、私も緊張しなかったと。
この家では2歳児すら料理に参加する。
昨日のご飯でもゆで卵を一緒にむいて、切ってもらった。
子ども用包丁だって一人で使える。
子どもだから。とか、客人だから。とかではなく、役割を与えてあげるということは、きっととても居心地のいいことなのだ。
なんでもやってあげたい、は、エゴだなと思った。
3.とりあえず無条件に信じてあげたい
「あれっ?」
「ここ?」
「ううん。さっきは大きな木のとこに行った。」
「だけど一本道だったよ。あっ、メイ。戻っておいでーっ。
メイったらーっ。」
「アハハハ!!!」
「ほんとだもん!本当にトトロいたんだもん! ウソじゃないもん!」
「メイ。」
「ウソじゃないもん。」
「うん。お父さんもサツキも、メイがウソつきだなんて思っていないよ。」
嘘じゃないもん。。
という時のメイは本当に悔しそうだ。
自分が言ったことが嘘だと思われること。嘘つきだと思われること。真剣なのに笑われること。馬鹿にされること。
子どもにとって多分一番の痛みは信じてもらえないことなのだ。
おとなになると違うかな。
役に立たないと思われることとか、無能だと思われることとか、そういうものになっていくかもしれない。
けど、子どもにとっては
「信じてもらえれば、話を聞いてもらえるし、信じてもらえないと、話も聞いてもらえない=興味を持ってもらえない」
という意味で、多分信じられるということは一番生存していくのに大切なことなのだろうと思う。
嘘つきだと思っていないよ、とちゃんと対峙するメイのお父さんは素敵だし、この次の返しがもっともっと素敵なのだ。
4.想像力を膨らませる会話をしてあげたい
「メイはきっと、この森の主に会ったんだ。それはとても運がいいことなんだよ。でも、いつも会えるとは限らない。」
トトロに会ったというメイに対して、こんな言葉を投げかけるお父さん。
この一言はとてもパワフルだし、子どもの感受性を守るために重要だと思う。
「夢を見たのかもね」
「トトロって絵本のでしょ?」
「さぁとりあえずご飯にしようか」
よくいるおとなのふと出る対応ってこんなところじゃないだろうか。
それをお父さんは、「森の主に会ったんだね」という。
なんと素敵な返しだろうか。
トトロって森の主なの?いつから住んでるの?どこにいるの?また会える?
と子どもの想像力がまた更に膨らむ。
ここで大事なのは、
トトロを見た、ということを否定されなかった、ということと、
トトロは森の主なのかもしれない、という新しい解釈が加わったことだ。
夢だったのかもね、というと、
そうか夢か、じゃあトトロはいないんだ。
という話になり、会話がTHE ENDである。
サツキとメイの身の回りのおとなはお父さんはじめ、みんな対話力が高い。
「おとうさーん!やっぱりこの家、何かいる!!」というサツキに、
「そりゃあすごいぞ!お化け屋敷に住むのが子どものころからお父さんの夢だったんだ!」と返すお父さん、やっぱり強いし、
まっくろくろすけをススワタリというおばあちゃんは、「今頃、天井裏で、引っ越しの相談でもぶってんのかな。」とにんまり話すし、
その話を聞くたびに子どもの顔がぱあっと明るくなっていくのが素敵すぎる。
そういえば、小さいころ、私も風邪をひくと母が枕元で「今、身体の中でシロシロ虫(良い者)とクロクロ虫(悪者)が戦っているからお熱が出てるのよ。シロシロ虫に元気をあげないと勝てないから、ご飯食べようね」と言われていた。こういう例え話とか、想像力が高まる返しを、対子どもに限らず、いつまでも忘れずにしていきたい。
5.ちゃんと”触って・触らせて”あげたい
トトロは他のジブリ作品に比べても、飛びついたり、つついたり、抱きついたりする描写が多い。
なんというかとても動的で手触りがある。
トトロにメイが初めて会った日も、お腹の上にまたがってキャッキャしてたかと思えば、そのうえで眠るし、
病床のお母さんや、バス停で待っていたお父さんに抱きつくし、
駒に乗って飛ぶトトロにはしがみつく。
サツキは母に、「大きくなったらお母さんみたいな髪になる?」っていいながら櫛で梳かしてもらい、
風呂場では台風に負けないよう水しぶきを掛け合いながら大きい声で笑い飛ばす。
おばあちゃんの畑でとれたきゅうりは手づかみでボリボリ音を立てて食べ、トウモロコシは袋や風呂敷に包むのでもなく、腕にしっかり抱えて運ぶ。
実際に人・もの・生き物に触れている、触っている、その知覚があることは、安心に繋がるのではないかと思う。ちゃんと、それそのものと繋がっている感覚というか。
家の2歳児もいつも足にしがみつき、身体を摺り寄せてくる。
触っていると安心なんじゃないだろうか。
デバイスを渡して気を紛らわすことはできるけど、安心感は直接性がないと得られないんだなと思ったし、おとなになったら認知によって繋がりを感じることもできるけど、小さいときにどれだけ知覚的に(温かいとか、冷たいとか、ごつごつしているとか、どくどくしているとか)繋がりを感じていたかは多分将来の認知の深さに大きく影響しそうだなと感じた。
あと1週間、2歳児を溺愛しようと思うし、従妹を溺愛しようと思う。
さいごに
久し振りに観たトトロから、こんなメッセージを受け取るなんて、私もそろそろおとなになってきたのね。と思った。
私にはもうトトロは見えないと思う。
子どもである時期は十分謳歌させてもらった。
でも突風を感じたら、「あ、猫バスかトトロが通り過ぎたのかも」と思うくらいの感受性は守っていきたいし、もしも将来自分の子どもが「トトロ見た!」と言ってきたなら、存分に羨ましがって、存分に話を聞いてあげたいと思う。