土砂降りでも雲の上はいつも青空
最初の土砂降りは20年前に突然やってきた。
夫がいつに無い神妙な顔付きで、お話があります、と言った。
仕事を辞める事になりました、と。
当時まだ40歳の働き盛りの夫は、突然のリストラで、サラリーマン生活を終えた。
この時は、私は漠然と、きっと次の道が何か用意されてるから大丈夫と思っていた。
だから、夫にも少しゆっくりすれば、と言ったのだった。
結局、それっきりになるとは、その時は思いもかけなかったのだけど。
その時子どもは、五年生の長女、三年生の長男と、次男はまだ幼稚園年長だった。
まぁ、まだしばらく義務教育だし、夫の両親と2世帯住宅に同居なので、家もあるし、固定資産税はじーちゃんが払ってくれて、家賃もローンも無いから、何とかなると思った。
夫は、パソコン教えたいと、退職金注ぎ込んで資格をとり、当時としては画期的なe学校という、ネット上でやり取りするパソコン教室を始めた。
けれど、3ヶ月で、本部から生徒の紹介が無くなったとたんに、頓挫したのだった。
そして、完全引きこもりになった。
そのまま、長女は中学生になり、夫が無職のまま、高校入試になった。
習い事もすべて辞めて、自力で入試になった彼女は、結局希望校を諦め、ギリギリで商業高校への進学を決めたのだった。
無知な母親で、申し訳なかったけど、私は彼女の選択を、ただ受け入れるしかなかった。
娘が高校生になった時、夫に、リハビリと思ってバイトして!とお願いした。
それで、コンピュータ会社の下請けにバイトに行ってくれるようになった。
娘の不登校
ところが、娘は、高校1年の終わりに、突然学校に行けなくなった。
演劇部を作って、仲間を集めて、コスプレやって楽しそうにしてたのに、突然だった。
本人に聞いても、理由は無いと言うし、原因は分からないと言うのだけど。
まず、電車やバスに乗れなくなり、教室に入れなくなった。
毎日車で送迎して、違う教室で自習させて貰った。
でも、学校に到着すると、声が出なくなったりして、そのままドライブした事も何度もあったし、そもそも朝動けない日も多かった。
別教室で受けたテストの点数は良いのに、学校からは、教室に入れないと単位はあげられないと言われた。
結局、2年の途中で退学して、翌年通信高校に入り直すことになった。
だいたいの公立高校はそうだと思うけど、入学説明会の時に役員が決まる。
そして、3年間役員をやるので、2年になる前に本部役員の打診があるのだ。
結果、娘が学校に行けない時に、母の私は本部役員だった。
先生たちと話ができたので、それはそれで良かったけど。
そして、娘が退学したら、当然本部役員も、お役ごめんになるのだった。
役員は大変だけど、子供がいるからこそ、させていただけるお仕事だと思い知った。
長男の学習障害?!
そして、この頃中学生になっていた息子が、まるで勉強について行けてない事も発覚していた。
当時、まだ学習障害とかそう言う事が言われ始めたころで、どこで調べて貰えるやら?だからどうなのか?もよく分からなかった。
息子は、友人は沢山居て楽しく学校に行ってる様だったけれど、授業がまるでわからず、1時間目から5時間目まで、ずーっと寝てたらしい。
息子に聞くと、ケロっとして、「でも5時間目まで寝ると、6時間目は寝れないんだよー」と言った。
ノートもテストも全部真っ白だった。
通知表は、こんな点数取る子、ホントにいるんだ?!という点数だった。
けれど、それ見て娘は、点数つくだけマシだよー、と言った。
不登校になってた娘は、成績表に点数もつかなかったから。
息子は2歳ころから、制作が得意で、幼稚園前からミニ四駆を自分で作って走らせたり、粘土で恐竜の骨格作ったりしていた。
ボール紙などで、突然パーツを作り出して、何かと思ってたら、立体の恐竜が出来たりしたのだ。
だから、絶対彼には才能があると信じていたけれど、それが学校では、発揮するすべがなかった。
美術も技術も、彼がやりたいものをやらせてくれる訳はなく、彼は自分の趣味に走った物をやろうとするので、提出期限までに出来上がらずに、得意な筈なのに、1か2しかもらえなかった。
公立高校に何とか入った姉でさえ、行かれなくなるのに、この息子が行ける学校が、公立にあるとは思えなかった。
かといって、私立に行かせる予算も無いのが現状だった。
学習障害だとわかったら入れてもらえる学校があるのかも?と思い、とりあえず検査をと、あちこち探したら、県の施設で無料検査してもらえる事になった。
息子を連れて、車で1時間、何度も通って、出た結果はグレーだった。
一番の問題はお金が無いこと
正直、アルバイトの夫の給料は10万位で、給料日にあちこちの支払いを済ますと、8000円しか残らず、週に10キロのお米を食べる我が家で、どうやって暮らすの?と思う月も多かった。
でも、何故か、毎月何とかなったのだった。
どうやって、やり繰りしたのか殆どわからないけど、無い予算は当てにならないので、家計簿を辞めた。
お金は天下の回りものとも言うし、明日は、何が起こるかは、誰にもわからない!
思いは叶うのよ!と子どもの頃から親に言われて育ったので、自分の心底の思いを変えないといけない!と言う事だけは、わかっていた。
それで、無いものではなく、有るものを数える事に、気持ちを変えた。
家もあり、空気も吸えて、心臓も動いてて、手も足もある。
お金がどんなにあったとしても、目も手も足も買えない訳で。
だったら、もう何億円分も、与えられ済み!という事になる?!
何てラッキー!ありがたいこと!
まぁ、クヨクヨしたってはじまらないしね。
夫のバイト先が、移転になって4年程で職場が無くなり、また無職になっちゃったんだけど。
でも、夫も娘も息子たちも、この世に生まれたからには、生きて進むべき道は用意されてる筈。
だって、生まれて来れたわけだから。
生まれて来れる、ってことは奇跡なのだから、ちゃんと成長課程の道も準備されてるはず。
と、勝手に思っていたので、きっと息子が私立に行くべきならば、どっかから、行ける道が開かれるだろうと、思っていた。
そしたら、ポスティングのバイトしてた時に、道でばったり息子の同級生のママに会って、こんな学校があるよ!と、近所にある私立の学校を教えてくれた。
小学校の課程から戻って、わかるまで面倒みてくれる学校。
結局、長男も、次男までもが、この学校にお世話になる事になったのだった。
私立だったけど、そんなにメチャ高額でもなく、たしか、息子の在学中に国からの援助金も出る事になったし、単願なら入学金は免除だったし。
小学2年生の漢字も読めなかった息子なのに、卒業までには、漢字検定、英語検定、パソコン検定、簿記検定などなど、数多くの資格を取らせてくれた。
この時に学校を教えてくれた、同級生のママは、天の使いではなかったかと思ってる。
だって、道で行き会ったのは、この時ただ一度。
過去に喋った事もない、家も電話番号も知らないママだった。
今となっては、お礼も言えないけれど、彼女のおかげで、その後、不登校仲間の友人が何人この学校に救われたことだろう。
娘の進学と就職も
高2から通信高校に入り直した娘は、1年ダブったことが、結局は後で有効となるのだった。
不登校になってしまったおかげで、私も娘に「お金の関係無いなら本当はどうしたかった?」と聞き出すことが出来た。
彼女は、本当は勉強がしたい、4年大学に行きたい、と言った。
本人が、どうしても大学に行きたいのだったら、これは何としても行かせてあげたいし、行くべきだと思った。
それで、自力で行くという選択もあるよ、と話した。
彼女は通信高校の成績を上げれば、利子ナシの奨学金を借りれるから、そうする、と言った。
もともと、携帯が欲しいために、高1からバイトを始めていて、携帯代もお小遣いも自力で稼いでいた娘だった。
親として、気持ちと食事のサポート以外、何も助けてあげられないけれど、きっと彼女の力になるだろうと思っていたので、申し訳ないと言うよりは、応援しようと思ったのだった。
結果、大学に入ったら、成績優秀者の若干名に給付の奨学金が出る事もわかり、彼女はそれを毎年1番をとって、受けてくれたのだった。
就活する時になって、彼女の行きたい一般企業は、何度行っても最後の最後に落ちた。
さすがに落ち込んでいたけれど、私は「4月までに1つだけ決まれば良いのだから大丈夫!絶対1個はある!」と言って励ました。
50社受けたら丸になるかもしれないんだから、30社落ちたら、30クリアした!と思えばいいよ!と、励まし続けた。
そして、祈っていた。
そしたら、ちゃんと、最後の最後に、通っていた福祉の大学の事務職に、空きが出たのだった。
大学で7年ぶりの新入社員を取ることになって、その条件は「福祉を希望してなくて、成績優秀で、内定の出てない女子」という、娘にドンピシャの条件だった訳である。
途中で、内定が出ていたらダメだった。
そして、1年ダブっていないと、出ない空きだった。
それで、ありがたい事に、出身大学の事務職に無事、就職が決まった。
義父の突然死と、不動産トラブル
何年か、時は遡るけれど、娘が大学に通いはじめた頃に、同居していた義父が、朝、突然亡くなった。
義母に、おかしいから来て!と呼ばれた時には、もう息をしていなかった。
葬儀の手配をする時に、義母の言動がちょっと変で、そして、かなり耳も遠くなっている事にはじめて気づいた。
そして、夫も義母も知らなかった不動産トラブルが発覚した。
江戸時代から住んでる土地だったので、棟続きの二世帯住宅はそれなりの広さがあった。
夫は一人っ子だったので、相続税の申告が必要で、でも、現金は葬儀で消えて、税理士さんを頼める予算はなかった。
けれど、幸い夫が無職で、パソコンは堪能だったので、自力で相続税の申告から、登記から全部やる事になった。
登記を調べたら、隣を開発した業者と義父のトラブルから、庭の横の開発道路と庭の間の3センチが、開発業者の土地になっていたのだった。
道路の無い土地は、どんなに駅チカで地盤の良い場所でも、家が建てれない。
つまり、売るに売れない、子供たちに相続しても、分割も出来ず、家を建て直す事も出来ない。
しかも、埋蔵文化財を発掘しないと、建築許可が出ない場所で、発掘調査の費用は自費なのだ。
ともあれ、相続税の申告は、10ヶ月以内にやらないといけなかった。
当時、外に出られないようになっていた夫に代わり、私が役所の無料相談に通っては、専門用語などわからない事を聞きに行った。
夫は、かつて司法書士の学校に1年だけ通った事があり、モノにはならなかったのだけど、結局は無事、相続税も登記も、自力で申告してくれたのだった。
その後トラブル相手の不動産屋さんに、交渉にも行ったけれど、タダで半分よこせというのだった。
それで解決するならば?とも考えたけれど、土地をタダで取引すると、こちらが売った事になって、7桁以上の税金がくるらしい。
それは払えないし、ただ住んでるだけなら、とりあえず問題無いので、きっと今は時期では無いのかも?と思い、時期を待つことにした。
そしてまさかの、私のガン手術
そんな頃、私は自分の不調をかかえていた。
検査に行った方が良いかも?とは思ってたけれど、検査にかかるだろう費用をケチっていた。
半年くらいは、自分の体の不調なら、自分の体で治せるかも?と様子見していたのだけれど。
結局、娘に絶対病院に行け!と背中を押されて、ようやく、そうだカードで払えばいいや!と、地元の総合病院に行ったのだった。
ところが、大腸の内視鏡をしたら、途中で検査が出来ないと言われた。
ガンが大きくなっていて、全身、どこまで転移しているか検査しないと、完治できるかどうかもわからないと、その時告げられたのだった。
さすがの私も、この時ばかりは、頭が真っ白になった。
細胞の検査結果が出る時は、家族と来てくださいと言われ、夫にどうしよう?!ごめんなさいとメールした。
当時子供たちは、まだ全員学生だった。
けれど、このガンのおかげで、夫と家族のありがたさがわかった。
自分が死ぬかもしれない?!と思った時に、頼れる人は、夫しかいなかった。
80歳を超えた実家の両親には、どうしよう?とは言えなかったし。
その時に、夫の「存在」のありがたさがわかった。
夫に仕事があるとか、収入があるとか無いとかは、全く関係が無い事だった。
ただ、いてくれる、その事だけで良かったのだ。
そして、もう一つ気づいた事があった。
明日の命がわからないのは、ホントは全員が同じ条件だ、という事だ。
ただ、自分はいま、ガンがみつかっただけ。
明日、生きてるか死んでるか、10年後に生きてるか死んでるか、それは、私だけでなく、誰もが同じくわからない事だ、と気づいた。
義父は、前日まで元気だったのに、突然、たぶん動脈瘤破裂であっという間に逝った。
そして、どんな難病でもガンでも、10年20年生きる人は生きるのだ。
自分で生きているのではない、「生かされている命」だった。
なので、自分のこの世での使命が、まだあるならば生かされるだろうし、今世の使命が終われば、どんなに元気でも若くても、死ぬ時は死ぬのだ。
そう思ったら、ものすごく楽になった。
そして、勝手に我慢して、勝手に無理して、勝手にあきらめていた事が沢山ある事にも気づいた。
誰に頼まれてもいないのに。
なので、もし元気になったら、韓国に行こうと決めた、というか、娘に、そう「お母さん、韓国行くよ!」と言われた。
(その数年前から韓国ドラマと韓国俳優さんにハマっていたので・・この話はここでは割愛するけど)
ともあれ、検査入院で全身検査して、大腸ガンの手術をする事になった。
手術の1週間前に、外科の医師から手術の説明を受けた時に、なんと、乳がんがみつかった。
運の良いことに、この外科の医師が乳腺の専門だったそうで、あれ?あなた胸に影があるね?と気づいてくださったのだ。
で、1週間後にどうせ全身麻酔するから、一緒に手術したら良いでしょと、手術室を1日の予約にしてくれ、その日の帰りにマンモ撮って行け、明日の0番に検査予約入れるから、朝イチで来るようにと言われて、あれよあれよという間に、2つのガンの手術をする事になったのだった。
乳がんの方は、抗がん剤と放射線治療がセットになってると言われたけれど、その時、何故かそれはやりたくなかった。
私の知ってる人たちは、皆、元気だったのに、抗がん剤や放射線やり始めて亡くなっていたから。
で、先生に「それって、どうしてもやらないといけないものですか?」と聞いた。
そしたら、「本人がどうしても嫌なら、やらない選択もあるよ、今のところはセットでやった方が5年生存率が高いと言われてるけど、世界のガイドラインは2年ごとに変わるからね」と言うのだった!!
その時、医師が持ってるデータは、死亡するデータで、完治したら病院に来ない訳だから、治った人のデータは無いのかも?と、まぁこれは私が勝手にそう思ったわけだけど。
それで、「では、やらない方向でお願いします」と頼んだ。
ありがたい事に夫も「あなたがそう思うなら」と、反対しないでくれた。
お陰様で、2つの手術はうまくいき、奇跡的に、大腸がんは一番下までいってたらしいのに、20個取ったリンパの1つにも転移していなかった。
ガンについて、まったく調べなかったし詳しく聞かなかったので、よくはわからないけれど、細胞を検査した病理の先生が、間違いではなくて、本当に20分の0でしたよ!とわざわざ飛んで来た、と言われたので、たぶん珍しい事だったのだと思う。
これは、沢山の友人知人が、皆さんで祈ってくれたりしたおかげかもしれない。
乳がんも、初期ではなかったらしいけれど、手術以外はしないと先に頼んでいたので、怪しいリンパ節も取ってくれて、無事に終了した。
手術の翌日から、手も上がるし、たいして痛いところもむくむ事もなく、無事10数年経った。
退院後から、怒涛の展開が
私が退院した翌月、義母が転んで骨折した。
骨折が治りかかった1ヶ月後に、椅子から立ち上がろうとして、また骨折して入院。
これで、すっかり認知症になり、介護に突入する事になる。
そしてなんと、この義母の骨折のおかげで、保険金が下りたのだった。
二度目の胸椎の骨折では、なんと、後遺障害の保険までが下りた。
息子たちの私立の学費の払い込みが必要な時期に。
しかも、義母の保険は、3月に満期で、もう継続が出来ないという保険なのに、2月に入院して保険がおりて、3月に満期保険金も出たのだった。
なので当時は、人聞きが悪いけど、保険金で暮らしていた。
私のパート先も、元気になって復活するのを待っててくれたけど、さすがに冷凍庫に入って重いものを運ぶ仕事には復活出来ず、半年ほどして退職したら、失業保険も出たし。
そして、義父が亡くなり、不動産トラブルが発覚してから三年後に、思いがけずに土地問題が解決する事になる。
不動産屋さんとの交渉は決裂したし、これは素人では無理だと思ったのだけれど、知り合いに不動産屋さんはいなかった。
の、はずだったのだけど、20年来の友人のご主人が、なんと、突然不動産屋さんに変身していたのだった。
それで、別の用事でウチに来る事があった時に、旦那さんも一緒にみえて、土地、このままにしておかない方が良いのでは?とアドバイスをくれて。
不動産業者同士で、交渉してくれる事になったのだった。
で、結局は、意地悪していた業者が、丸ごと定価で買ってくれる事になったのだ。
江戸時代から住んでた土地を手放すのは、ご先祖さまに申し訳ないかな?とは思ったけれど、まあ、ご先祖さまも、もっと前には、他所からここに移ってきたようだし。
動く事が必要な時なのかもしれないし、と思った。
節分過ぎに、そんな話が持ち上がって、更地渡しだったので大慌てで借家を探し、あっという間の3・11一周年の日に、引っ越した。
足が悪くなった要介護の義母を連れての引っ越しなので、とにかく、『母が1階で暮らせる家』を探さないといけなかった。
でも、あの世に行った義父が、絶対にどこかを用意してくれてるはず!だと思ったので、そこを探して!と夫に頼んだ。
夫が無職でパソコン得意なのが幸いして、不動産屋さんよりも早く物件を探してくれた。
そして本当に不思議なくらい、お誂え向きの借家がみつかり、ここで暮らす間に、今の家を探す事になった。
宇宙にオーダー
「想いは叶う」訳なので、土地探し、家さがしの時にも「駅から歩けて、一階で義母が暮らせて、人が集まれるよう車が何台か停めれて、日当たりよく、風通しよく、隣とくっつき過ぎない、バリアフリーで太陽光発電のある家!」という、まあ贅沢な望みを、宇宙にオーダーしていた。
ここまでの十数年、もう、宇宙にオーダー、それだけで来てる訳で。
そして、私だけに限らず、本当は気が付きさえすれば、皆、オーダーしているものが、叶ってるはずなのだ。
何をオーダーしてるか?それが問題なだけで。
そして、本当に、今まで「起こった時にはマイナスに見えた」すべての事が、10年後の為に必要な事だったとわかるのだ。
黒に見えた事が、オセロがひっくり返るように、実はプラスだった!と変わって行ったのだった。
結果、引っ越し1年後に、現在の家を新築して越してくる事ができた。
私が宇宙にオーダーした以上に、夫のオーダーの、吹付け発泡断熱材までが追加された家だった。
しかも、夫婦ふたり共無職なので、ローンも組めないし、前の家が売れた代金で、引っ越しも、家賃も税金も全部やりくりしないといけなかったので、いくらの家を買えるかもわからなかったのだけど。
それなのに、何故この土地がここに残ってる?という所をドンピシャのタイミングで買えて、建築条件付きだったのが、またラッキーに働いて、あったらいいな、というものが全部標準装備されている家が出来上がった。
まさに、宇宙から頂いたとしか思えないような、家だった。
これも、夫が無職のおかげで、すべてのタイミングが間にあったし、設計なども夫のおかげで、不都合なく上手くいったのだ。
世間の常識で考えたらありえないことだけど。
ともあれ、今も夫は無職のままで、子供たち3人が私立大学、専門学校を卒業出来て、家も新築、ってウソのようだけど、実話なのである。
そしてここに引っ越してからも、ドラマは続いているけれど、それはまた次の機会に。
娘が不登校になってた時に、「この経験がきっと10年後には、何か訳があって必要な経験だったとわかるはず」と言っていたのだけれど、本当にそうだった。
思いもかけない事が起こった時、なかなか受け入れるのって難しい。
けれど、起こってしまった事は変えられない。
そのまま「受け入れた」時に、前にすすめる道が拓けてくるのだと、体感した。
今、「見える」事に、本当はどんな意味があるのか?それがわかるのに、何年もかかる事ってザラにある訳で。
だったら、どんなに「アンラッキーに見える」出来事が起こっても、それは10年後の「ラッキー」のために今、わざわざ起こってきた事なのだ、と思って過ごした方が、ずっといい。
それが、わたしの雨の避け方。
探せば、どんな事の中にも、良かったこと、ありがたい事がみつかるから。
これからも、ただひたすら雲の上の青空を、探す訓練をしつつ、喜んで過ごしたい。