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【北イタリアひとり旅:第2章】Ep.7/15-a『ほら、そのカメラは』

 朝5時すぎだったと思います。個室の扉が2、3回ノックされて、7月15日の始まりは、まさにそのノック音とともに始まりました。眼の焦点も合わぬまま扉を開けると、昨夜少し話をした車掌さんが立っています。クロワッサンやオレンジジュースなんかが無造作に並べられた、朝食のプレートを持っていました。

 “Buon appetito!(召し上がれ!)”

 寝起き数分で言い渡されるその言葉と朝食の匂いに、小学生の時、なかなか起きないわたしに否応なく朝ごはんの香りを漂わせてきたお母さんを思い出します。うーん、朝食の時間は5時30分ころって伝えたような気がするんだけどなあ。少し柔らかめのクロワッサンを頬張りながら昨晩の車掌さんとのやりとりを手繰り寄せますが、もう受け取ってしまったし口もつけてしまったし、仕方ありません。

 朝食も食べ終わろうかというところ、再び個室の扉がノックされました。次から次へと、今度は一体なんだろう。正直なところ、車掌さんに叩き起こされて少しテンションの低かったわたしですが、次に車掌さんの発した言葉は、その後のひとり旅の道程でずっとついてまわるのではないか、いやきっとそうなるに違いないと思うような、そんな言葉でした。

 「ほら、そのカメラはこの景色を撮るためにあるんでしょ。」

 車掌さんの左ひとさし指の向く先は、朝やけを待ち望む、一面の海でした。

in Venezia, Italy Juli.2024



 列車の進行方向左側に海が見えるということは、つまりメストレからヴェネチア本島へと続く鉄橋を渡っている最中であることを指すのですが、その時のわたしといえば、「寝台特急が海の上を走っている」くらいにしか考えられなくて、幸いにもカメラのファインダーをのぞく反射的行動を持ち合わせてはいましたが、やはりまだ脳は起きてはいなかったと思います。

 さらにいえば、薄い桃色を包む濃紺のアドリア海に、わたしは「きれい」のひとことしか発することができなかったはずです。何語でそう言ったのかも思い出せませんが、そんなことはどうでも良いくらいには、わたしは目前の景色に圧倒されていました。

in Venezia, Italy Juli.2024



 感慨に耽るのもつかの間、わたしと同じようにこの景色に見入っていた乗客たちの様子が、少し慌ただしくなってきたことに気づきます。そう、この寝台特急は、まもなくヴェネチア・サンタルチア駅に到着するのです。わたしもいろいろと準備をしなきゃ。ひとり旅の2日目が、上手に始まろうとしているのですから。

3番線ホームに停車した寝台特急

北イタリアひとり旅日記より

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