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『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の感想。

はじめに

私はパンフレットを買えませんでした!!!!

設定とか知りません!

それで良い方は読んでってね!!

※上映期間中にまとまらなかった感想を、配信をみて整理した形ですので、現在はもう少しポジティブに受け止めています。

感想

率直に言うと、言葉を巡る物語だった様に思う。

それは、水木しげる本人が戦地で文字通り命からがら生き延びた人であるからこそ、言葉の薄っぺらさと、空気感が言葉に重みがある様に誤解させる事をよく知っている。時には集団の雰囲気として、時には物を使ってそれが表現されており、その錯覚から生じる重さが、冒頭の列車でタバコの受動喫煙させられた子供の様に防ぐことのできないのない害として体に積もっていく様は、見ていて苦しい。

なによりも、この言葉の最大の被害者が沙代であった様に思える。沙代がクリームソーダなどの外の知識を知っていたのは恐らく姉と父の影響であり、その言葉と現状を脱したいという思いから、外に憧れを抱いてしまった。

けれど、同時に聡い少女でもあったので、外が無条件の楽園でない事はわかっていた。それでも、外に縋らずにはいられなかったのは外の知識という言葉に夢を見たから。

さらに、冒頭でゲゲ郎を主人公は騙していたが、まさにあれが物語の縮図と言っても過言ではない。あらゆる人物が自分の為に他者に言葉を吐く。結局の所、誰も(ゲゲ朗以外)他人の未来を見てなどいなかった。他者を利用するという、生きる中での逃れられない業、それにより蹴落とされた人々の怨嗟。その怨嗟から水木だけが抜け出した(ように見えてるだけとも言える)。

最終的に、その怨恨の看取り手として鬼太郎が誕生し、物語のラストできちんとその役割を全うするが、鬼太郎は妖怪である(どうやら作品によっては半妖らしい)。その点を踏まえると、人間社会の構造による負の側面を浄化できるのは妖怪であり、人間ではないというのが本作の結論に思えしまう。

まあ、絶望的な視点を持ってしまったのは、偏に私が鬼太郎シリーズをほとんど触れたことがなく、本作の立ち位置を理解できていない所にあるからだろう。

底辺の上に成り立つ社会

どんな集団においても、集団であるが故にヒエラルキーが生じてしまう。

そのヒエラルキーについて、例えばトッド・フィリップス監督の映画『JOKERA』ではより強烈に描かれていた。今まで抑圧されてきた者たちの暴動による権力構造の反転。そこに私達は興奮を覚えるが、このような映画を映画館でお金を払って見る余裕のある私たち視聴者は、現実に当てはめてみれば、抑圧している側におり、ジョーカー達に打ち倒される存在であるのは明白だ。

同様に、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』では物語終盤で、水木と時貞の戦いの場面において、最下層による反撃を描いている。

ヒエラルキーの最下層である事に怯えていた主人公の水木。彼は時貞からの提案を一蹴し、悪の権化として描かれるヒエラルキーの最上位の時貞を倒す場面に私たちは感動するが、先ほど述べた映画『JOKERA』と同様に、私たちは主人公の様な作中で描かれる底辺とは決して本当の意味で分かり合えない。

劇中で描かれた底辺とは金銭的、立場的な弱者がメインであるが、その核は高い立場でもより高位の存在(ワンピースでいう天上人)に食いつくされる者。そして、重要なのは最上位以外を除いて、誰もが縛られているという点にある。その連鎖から誰もが誰かを呪わずにはいられない。冒頭の列車の中で咳き込む子供がいたが、まさにあれが最下層の人間であり、呪いの根源。周囲からの悪意(無意識な物)がつもり、それが転じて人形に呪いらしきものが写る。

結局の所、これは非人道的な労働や、多くの問題を今だに抱える様々な業界の庇護化にある我々では主人公側に立つことなど決してできないし、主人公もまたその世界に帰っていく。

この哭倉村での出来事の中で獲得した"抑圧する者達に反抗するという"水木の最大の変化が、村から出る事で見事に失われてしまいう。この場面は『JOKRA』のラストで主人公が精神病棟らしき場所でカウンセリングを受け、「I'm just thinking of a joke.(面白いジョークを思いついた)」から本編を通して描かれた社会の最底辺による暴動が彼の妄想であったのかもしれないという想像を掻き立てる場面と根底に流れるものは同じだ。

それは、両者とも映画本編での変化を"全て無意味"になったということ。あえて映画本編での変化を"成長"と呼ぶならば、両者の幕引きは"退化"よりも酷い、"消失"した事になる。 勿論、ゲ謎に関しては最後まで見れば完全に哭倉村での出来事が全て無にきした訳ではないが、少なくとも水木の中に沙代の想いは何も残らなかった。

沙代に関する私の想像

龍賀沙代は水木を完全に心から愛していたわけではない。

これが私の結論だ。そもそも、冒頭から不可解なのだ。靴紐を結んでもらっただけで人に惚れるなどキモいオタクの妄想でしかない。

なら、何故彼女は頬を染めて彼に媚びる様にしていたのかといえば、それは彼を通してを強く見ていたからに他ならない。

確認するまでもなく沙代の夢は"村の外に出る事"である。しかし、劇中で彼女が「きっとですよ」と発言していた様に彼女は自身の夢が夢でしかない事を理解している。

彼女は時貞に犯されながらも生きてきた。恐らく父親と姉から与えられた知識から外に夢を見ながらも、地獄という現状を打破する手段が無い沙代は現実に完全に諦めていた。それが冒頭の下駄がダメになって動けないでいた事に繋がる(つまり、"裸足=自分の力"ではどこにも進めない)。そして、水木とは唐突に垂れてきた蜘蛛の糸だった。

"外の世界の男"というステータスに、彼女は悲観的な希望を見出した。自身をこの地獄(村)から天国(外)に連れ出してくれる。

それ故に、彼女は恐らく着慣れてないであろうワンピースを着てまで、自身を女として魅せて、自分に惚れさる為に協力もした。それは峰不二子の様に、目的の為に自身のの武器を生かす道を選んでいたわけである。

しかし、同時に彼女は少女だった。

水木に過去を知られるシーンで、彼女が真に目標のみに忠実ならば、ここで水木に対して愛憎を向ける事など無かった。しかし、彼女は中途半端に水木に惚れていた。だから、水木が自身から目を背けた事に絶望し、全てを壊すという行動に出ることになる。

もし、トンネルを二人で抜ける決断をしていれば、沙代の夢は少なくとも一時的にはかなったのだろう。けれど、実際は水木は沙代よりゲゲ郎を優先した。彼女の女としての努力は、水木とゲゲ郎の友情には勝てなかった。

そういう視点で見ると、この物語はゲゲ郎と沙代の水木という人物を巡る引っ張り合いであり、沙代は負けたのだ。そして、敗者がどうなるかなど、この作品の物語を見ていれば、考えるまでもない。

まとめ


私には2023年、一番の絶望に満ちた映画だった様に思えてならない。

もしも水木がえっち!!!という皆様の様な視点で見られたのならば、もう少し明るく楽しめたのだろうが、私はこの様な暗い世界しか見る事が叶わなかった。ただ、それだけに色々と考えるべき作品ではあるので、出会えた事には感謝?しかないですね。ほぼ確実に、主人公が村を出た事で記憶を無くした様に、私もこの映画をいつか忘れると思う。その心の奥底に確かに何かが残るかもしれないが、生きるとはそういう事の積み重ね。

何かを知り、忘れ、突然思い出す。

呪いの様に、背中をついて回る存在なのだと、この作品は語りかけてきたのだと思います。


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