フィリップ・ソレリスという人の書いた『公園』という本を、大学の図書館で見つけた。表紙は古びて黄ばみ、見窄らしかった。しかし、そのタイトルに惹かれ、手に取って序詞を読んでみた。これがとても面白い。少し引用してみよう。
文字通りの空間であると同時に潜在的空間でもある、ひとつの空間。それは、まさに公園と言えるだろう。公園という場所は、異なる時間の流れが一つの場で重なり、同時に進行している稀有な空間だ。おおらかな時間サイクルを持った植物は、花を咲かせ、青々とした茎や葉を伸ばし、紅葉し、雪に埋もれるというのを比較的長い時間をかけて行う。そこに現れる少年少女たちは、比較的短い時間の中で、悩み、泣き、一瞬間のうちにさまざまな変化を経験しながら遊んでいる。四肢は常に動かされ、発声する、そうして、日が暮れると母親と一緒に彼だけの時間が流れる空間に帰っていく。烏や鳩といった動物たちもまた別の時間を生きている。寒さにガタガタ震えながら、公園に行き、ベンチに座っていると、数羽の鳩が僕の足元に近づいてきた。彼らは、餌を欲しているのだろう。首をころころ動かしながら、時折視線を僕に向ける。僕が彼らを構ってやらないので、彼らも僕に興味をなくしたのか、ふくらんだ冬毛の中に頭を埋め、眠り始めた。
僕は、最近、部屋に閉じこもっている。昼でもカーテンを閉めて、常夜灯をつけ、手元だけがぼんやり灯りに照らされるように、スタンドライトの向きと光量を調節している。耳栓をして、開いた本のページだけが薄暗い空間の中、ぼんやりと浮かんでくると、その文字によって形作られた時間に僕の身体は溶け込んでいく。運動を身辺から排除する、そうすることによって現実世界の時間を止め、物語の世界に没頭しようとするのだ……。
動き……口の動き……運動、絶え間ざる運動。唇が開かれ、泡立つ微細な動きを想像した瞬間、僕の身体は、文字によって形作られた空間から、引き剥がされた。闇と、暖色のスタンドライトに黄色く汚された壁に目をやる。光と影が溶け込む境界に時計が浮かんでいる。静寂で凍りついたような空間の中で、時計の秒針が回転している。秒針は固まった空気との間に摩擦を起こして、ビリビリ電気音を立てながら動いているようだ。張り詰めた緊張感をもった空間の中で秒針が運動している。そこには確かに時間が存在している。
文字が単なる記号に化けた瞬間、僕は現実世界に引き戻され、部屋のあらゆる場所に視線を投げた。パソコンの暗い画面にスタンドライトに照らされた僕の半顔がぼんやり映し出される。目だけが生々しく光っている。僕は描きかけの植物ニンゲンに一本の茎を生やした。花も咲かせた。植物ニンゲンの時間が一歩前進した。
蜜柑の皮を剥いて、机の上に放り投げ、実を食べた。食べ終えると、椅子の肘掛けに手を置き力を入れ、立ちあがろうとした。肘掛けにしっかり掴まった僕の手の甲の皮膚が複雑な筋伸縮によって波たった。立ち上がり床に目をやると、電源タップのスイッチの赤い光が、瞳が潤むように細かく揺れていた。天井を見上げると、平たい丸餅のような常夜灯に淡い光が灯っている。光の塊がその丸餅の縁に寄っていた。僕は中心に光の塊が据えられているもうひとつの常夜灯を想像上で形作った。そのことで、現実の常夜灯と、僕の想像上の常夜灯の差異の間に激しい摩擦が起こった。トロリ……と音を立て、光の塊が中心から縁に移動する音を聞いた気がした。
再び、椅子に腰掛け、蜜柑の皮に触れてみた。すると、先ほどまでしっとり湿っていた皮が乾いていた。それも僕の記憶の中の滑らかな手触りの皮との間に断絶を生み、時間の経過を認識せずにはいられなかった。
時間は運動により、規定される。しかし、運動とは何だろうか?僕がただ一瞬間のうちに認識できる現象は、静的なひとつの像でしかなく、それは毎秒形を変えたり、移動したりしても、それが変わったと認識できるのは、記憶の中に過去の像が保存されているからだ。つまり、運動とは、想像上の像と、現実に見ている像との重なりであり、それは非現実と現実が折り重なった可変的なものなのだろう。僕が、常夜灯の光の塊が、中心に据えられているものだ、と信じて疑わず、その像を想像しながら、光の塊が縁に寄っている常夜灯を見れば、例え現実の形が静的であるとしても、運動が生まれ、時間は流れ出していく。つまりどんな空間であろうと、潜在的空間は無限に重なっていて、しかしそれは人間の想像の産物との重なりであり、つまり、時間芸術である小説には、無限の可能性があるということ……。
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