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欲しかった未来を描いてみる

京都の景観についてモヤモヤすることを、
もう、あきらめたいと思っている。
京都市の景観の問題というより、個人的な思いの問題である。

特に景観の何かに関わっている訳でもなく、
今はもう京都に関係した仕事をしてもいない。
でも、写真集に出てくるような素敵な街並みがなくなっていくのは残念だし
残しておいてほしいと思う。

行政の政策はよく頑張っていると思う。看板の規制とか、高さ規制とか。
その他色々。

民間レベルでも色々頑張っている。だからあきらめきれないというか、将来的には良い景観になるんじゃないかと思えたりする。

でもなんだかスッキリしないでモヤモヤする。

「みんな、何を守りたいのか?」

今残っているものをできるだけ長くなのか。
生活習慣なのか。

人それぞれ、違うと思う。
京都に住んでいる、
住んでいないけど、勤務地。
右京区に住んでいるか、左京区に住んでいるか
海外からの旅行者か
何代、京都に住んでいるかによって
守りたいものは違ってくる。

人それぞれ守りたい過去があって、それが微妙に一人ずつちがうんだと思う。
京都に住んだことがなくても、写真や映像を見る機会が多いし
守りたい京都の理想像がどこかにあったりする。

ここまで考えて、モヤモヤの理由がわかった。

「私が守ってほしいと思うものが守られないゆえに、モヤモヤしている」
だから、私が守ってほしいと思うものが守られないことを、あきらめたい。

実家が京都の老舗とか、少なくとも京都に住んでいるとかではないかぎり
当事者ではないのだから、あきらめるしかない。

ちなみに、私は何を守りたいのか?
何となく、看板が無いまちとか、高い建物が無いまち
とかでは無い気がする。

それよりも
造形のまとまり…だろうか。
全体の統一感だろうか。

かっこいいことを言えば
本物の過去、過去にあった本質を守ってほしい。と思う。
でも、本物の過去って何だろうか?

みんな上書き保存されて
過去のものは消えていく。

残っていると思ってるものは、上書きされた「過去」であって、本物の過去じゃない。

本物の過去じゃないとしても、
京都以外の、小京都(小京都と呼ばれていた場所)の方が景観がまとまって残ってたりするのは
そこに、その景観で過ごす生活システムがまだ残っているからか。

しかし、それは、守るべきものなのか。
生活システムは、過去の形のままずっと残すことはできない。
消防の観点からどうしても古いままでは残せなかったりするし、
家と街が火事になりにくいのは大事なこと。
過去のまま残せないということは、形も過去のままは残らないということだ。

虎屋の、「良いなぁ」を残す取り組みにヒントがあるような気がしている。

そう思うということは、
京都の良いなぁと思える部分が残されていない、と私は思っているということだろうか。
町家も全てが良いなぁではなく、外観のまとまりは良いなぁかもしれないし
素材も良いなぁかもしれない。でもそのバリアフリーじゃななさ、燃えやすさは良いなぁとは言えない要素。

良いなぁの本質を抑えて、
必要なのは「編集」だと思う。
歴史をまとめて、再編集という、すごく地味なめんどくさい作業をすれば、時代に合った良いなぁが残るかもしれない。

ということは、私は特定の何かを守りたいというより、過去の「良いなぁ」を材料に編集したいらしい。

ということは、モヤモヤの理由もこうなる。
「私が編集してほしいと思うものが編集されないゆえに、モヤモヤしている」
だから、編集してほしいと思うものが編集されないことを、あきらめたい。

そして、
あきらめて、絵に描くことにした。

編集して絵にして見るだけなら一人でできる。
実現しなくても、描いてみれるだけでスッキリしそうだ。

実際の京都は、私のモヤモヤとは全然別のところで脱皮なり変身なりして
新しい価値ある景観を作るかもしれない。是非そうなってほしい。

例えば、オリンピックで活躍したいという夢は、ある年齢までは、大きな夢。
でも一定の年齢を過ぎても何も結果が出てなかったら、
何か別の方向で努力したらいいのではとなる。

京都の景観を守りたいと言うのは、それと同じくらい大きな夢だと思う。
ある年数以上が過ぎたら、どうしても出来ないことが確実にあって、
それ以降は別の努力をしたらいいのではないか、と思う。

無い袖は振れないし、無くなったものは守れない。

未来のためにできることは少ないかもしれない。

でも、描いた絵と同じにならなくても、
1枚の絵によって何か少し未来に京都の「良いなぁ」要素が
残ってくれたら嬉しい。

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