『シビル・ウォー アメリカ最後の日』への違和感とドナルド・トランプについて
内戦状態に陥ったアメリカを描いた『シビル・ウォー アメリカ最後の日』はものすごく話題になっているし評判もいいけど一人の観客としては私は全然のれなかった。映画の出来とかつくりとかそういう部分での話ではなく、この映画が語るもの、見えているものの中に少なくとも私は入っていないなというきわめて個人的な感情によるもので、しかしこの映画を見る上ではその感情こそが重要だろうとも思っている。という話はこちらの映画で詳しくしているのでお時間あったら見てほしい。ひとりのアジア人として、この映画に対して「現代人は必ず見よう」みたいなところには私はとてもたどりつけない。
この映画でもう一つ気になったのは大統領の描写で、まあ三期目突入で好き放題やってる民主主義の破壊者ということでトランプがモデルなことは間違いがないだろう。完全にトランプを模倣していないところはこの映画の節度と矜持ではあるけれど、クライマックスのシーンでこの映画の大統領はちゃんとみっともないところを見せる。最後の方のシーンからは、いろいろ威勢のいいことを言ってもけっきょくいざとなったら命乞いするんだろ~?みたいな気持ちを画面からすごく感じる。でもこれってトランプ側の思うつぼなんだよね。リベラルが皮肉にそう思ってたらトランプは銃撃されてあの印象的な反応をした。相手をなめてかかって所詮威勢のいい扇動者なんてこんなもんでしょ、と思ってたら超かっこよくトランプが振るまった。こんなん支持者にとっては一番気持ちいいやつ。「お前らがどんなにトランプを貶めようとも、現実で勇敢に振る舞うのは彼なんだ」となる。
人前で何かしらの弁舌を振るいパフォーマンスするというのはそれだけで異常なことだ。日常生活で血が出れば「うおっやべ」と思うけど、人前でパフォーマンスしている時に血が出ても「血は出たが今やるべきことをせねば」という気持ちの方が勝つこともあるだろう。だからああいうリアクション、ガッツポーズを取れること自体は(少なくともトランプくらいの人間にとっては)驚くようなことじゃない。あの状況で立ち上がって拳を上げるのは周りの警備の人の方が危なかろうし。でも、その絵面の破壊力、見る人に与える影響はものすごい。
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を見て、私は前回のトランプ当選時のゴールデングローブ賞のメリル・ストリープの演説を思い出した。あ~これは厳しいな、と当時思ったことも。
この演説の何が厳しいかというと、一つ目としてはシンプルにフットボールやMMAを馬鹿にしているところ、そして二つ目はそのことを公然と言っても問題ないと思っているところ。一つ目は内心で何を思うかは自由なので全然いいんだけど、NFLやMMAのこと全然知らないなら触れない方がいい(どちらにもアウトサイダーたちや外国人がいる)。WWEも有色人種はベルトがなかなか取れなかったけどアカデミー賞とかだって明らかに人種や性別の勾配があるわけだし。
でも何よりも二つ目がまずい。何がまずいって、自分の偏見をもとにトランプ支持者が思う「いけ好かないリベラル」を自分から進んで演じてしまっていること。この発言一つでメリル・ストリープはトランプ支持者の思い描くストーリーの登場人物として彼らの世界に自ら足を踏み入れてしまった。俺たち、私たちの好きなものを非難して馬鹿にするいけ好かないリベラルという悪役として。その視点から見るとメリル・ストリープの演説は完全に負ける選手のマイクパフォーマンスにしか聞こえない。どれほど正しいことを言っていても、だ。
このスピーチに限らず、知的なリベラルを自認する人たちがプロレスの論理を知らずにプロレスの使い手にずぶずぶと引きずり込まれてしまう様子をここ数年大変な頻度で見る。話題になった大統領選のテレビ討論会も同じだ。
「移民が犬や猫を食べている」という彼の言葉はシンプルにデマだが、問題はこの話題が出た時のカマラ・ハリスの反応だ。トランプが熱を込めてこの主張をしたとき、ハリスはあまりの荒唐無稽ぶりに「フハッ」と水木しげる漫画もかくやの笑いを返してしまった。このリアクションを引き出しただけでもトランプはもうこのテレビ討論会の目的は果たしたと言っていい。トランプの側についている視聴者は、「俺たち、私たちはこんなに真剣に悩んでいるのにインテリ気取りのリベラル女はやっぱり鼻で笑うんだな」となる。その感情は彼らが普段から感じているフラストレーションと繋がって大きな感情、反感を生む。彼が話した内容がネット上のデマであるという事実は後退し、民主党候補者が自分たちの問題を真剣に考えてくれないという印象だけが残る。
マイクパフォーマンスのやり取りというのはかなりの部分、発信するところではなく応答のターンの方が重要で、なぜならマイクで発せられた言葉は「答」が出現するまで価値判断が留保されている単なる情報なんだけど、「答」が生まれた時点ではじめて発信者、応答者それぞれの感情と立場が固定化されるから。「答」は必ずしも言葉である必要はなく、表情とか身振りとかの方が重い意味を持つことも多いし、長々とした言葉よりもずっと強い印象を見ている者に残す。この辺りのテクニックは私は伝統的なプロテスタントの教会の牧師のメソッドからきてるんじゃないかなと勝手に思っている。
もちろん、不確かな情報をもとに差別を煽るのが悪いことであるのは間違いがない。当たり前だが、私は「だからトランプが正しいんだ」とか言いたいわけじゃないし、やり方を学んで真似ろと言いたいわけでもない。そんな細かい指摘で有利不利が決まるんならトランプに真面目に対抗するにはノーミスで行けみたいな無理な話にもなりうるし、そんなんめちゃくちゃ不均衡な戦いだ。トランプは言いたい放題なわけだし。先ほどはハリスが笑ったことが相手の思うつぼだと指摘したけど、女性候補者が笑わなかったら笑わなかったで「何で笑わないんだ、親しみが持ちにくい」とか言われるだろうし。そもそも「言った内容よりも敵陣営に対する嫌悪感を煽った方が勝ち」みたいな現状を変えなきゃいけない。
でも、私にとってものすごく意外だったのは、あれだけエンタメが徹底された国であるアメリカのエンタメの世界の人だったり、ポピュリズムと対峙しなきゃいけない選挙の人だったりが、ものすごく初歩的なところでトランプのやり方に引っかかっているという事実だ。相手の好きなものをバカにする人は負けるタイプのヒールだとか、マイクパフォーマンスの際には言われた内容よりも言われた際の表情とかのリアクションのほうが重要とか、「プロレスさえ見ていればこんなことには……」みたいなことはここ8年くらいずっと思っている。