『ナミビアの砂漠』観たよ
公開前からかなり話題になっていた映画で、河合優実は今年の顔で間違いないという事も含めていろんな注目ポイントのある作品。河合優実は高校生の時から監督の山中瑶子に「監督の映画に出してください」と直訴していて、その意味では念願のタッグとも言える。
21歳の脱毛エステ勤務のカナという女性が自由気ままに見えてぜんぜんきゅうくつな日常を生きていく姿を描いている。カナは一般の映画からするとかなり共感しづらい女性に見えるように演出されていて、友達の話を聞いているふりしてノーパンしゃぶしゃぶの話に集中したり不動産屋の彼氏と付き合いながら別の男と遊んで昼逃げしたり新しい彼氏にも早めに失望して家で暴れたりする。そんなカナだが周りのひとたち、特に彼氏はカナよりも相当しょうもなく、しかし彼氏のしょうもなさは社会的には許容されがちだ。その非対称性がこの映画のポイントだ。しょうもない彼氏と付き合って「なんであんな男と付き合ったんだ?」とあとから不思議に思ったことがあるひとはいたたまれなくなると同時に強い共感も覚えるだろう。
なんといってもカナはまだ21歳だ。多分彼氏は二人とも年上で、クリエイターの彼氏の方に至っては金持ちのお坊ちゃんで同級生は官僚なので21歳の時には学生として親の庇護のもと楽しく学生生活を謳歌していただろう。彼氏たちはそんなカナを庇護しているように振る舞うけれど、カナにはなんの憂いもなく楽しめる若者としての時代はない。まんこ呼びをされ、風俗に行ったことを懺悔され、浮気相手に一緒に暮らそうと言われ連れ出される。誰もカナの人生の全体像について思いを馳せない。女としてのカナしか見えず、大人として若年のカナに向き合うつもりのあるひとはいない。男達が奔放なカナに振り回されていると見る人達も多いだろう。でもそれは、彼氏の二人とも、カナを対等に見ていないし、カナという女性の人生を信じていないからだ。なのに、カナが21歳で一人前だという建前を使って彼女を「彼女」として扱う。大人として扱われた責任をとらされるのは、たとえ実際に大人でなくてもだいたい女性だ。堕胎された胎児の写真はそれを証明する。カナがイラつくのも当然だ。
とはいえ個人的にはあんまりこの映画は好きじゃない。怒りの発露としてカナは彼氏に暴力をふるうのだが、非力なカナは彼氏に何のダメージも与えられない。じゃれあいのような取っ組み合いのようなものとしてカナの暴力は映し出される。基本的に女性だろうが男性だろうが暴力はよくない。女性のDVだっていっぱいある。カナが彼氏に暴力をふるうのは、女性‐男性の腕力に非対称性があるゆえ許されている(ように見える)が、その非対称性を是認したら既存の男女の権力勾配を容認することにもなりはしないか。「女の子は暴力ふるっていいよ、非力だし、かわいいから」。それは差別の再生産だろう。男も女も大人も子供も暴力をふるってはならないから、私達は平等でいられる。実際に、この映画の喧嘩はきちんと流れを作って設計されている、いちばんフィクション性の高い場面だ。ふわふわの布団とかソファとかに落っこちるようにうまいこと調整してても現実ならいつか失敗してカナは後頭部を強打するだろう。
こういう、わりとステレオタイプで現状追認的な(というかそれが現実だから現状追認もクソもないのはわかるのだけど)女性-男性の関係性がこの映画にはちょいちょい出てきて、わりと男性の方がこの映画を絶賛してる状況も含めて、私はやっぱり居心地が悪い。でもそれは、カナ的な状況から逃げ出してきた、あるいは逃げ出せた私の個人的な視野も関係しているのだろうけれど。