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『レッド・ロケット』観たよ

『タンジェリン』『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』のショーン・ベイカー監督が、テキサスの地元に帰ってきた元ポルノスターの男のしょうもないあれやこれやを描く映画。

私は『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』が大好きなのだがなんと今回ショーン・ベイカーは子どもの世界のままならなさを描いた『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』のテーマやら何やらを『レッド・ロケット』では久々に地元に帰ってきたおじさんで反復するという圧倒的な映画力を見せつける。『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』で子どもの置かれた立場に同情したみんな~、おじさんが同じ状態に陥っても同じ気持ちになる?ならない?ならないとしたらなんで?
だってこの男マイキー・セイバーは、子どもと同じくらい無力で、行き詰まってて、自分の力だけで人生の行き詰まりを打破することなんて絶対にできない。でも私たちは、子どもがディズニーランドを夢想したあのラストシーンには切なさと希望を感じるのに、18歳の女の子がセクシーな格好でおじさんを出迎えるあのシーンには苦々しい顔を浮かべるじゃないか。
いや当たり前やろとついつい真顔になってしまうが、その「当たり前やろ」を問い直して反転させて「なんで当たり前やろなの?」と立ち止まらせるのがフィクションの持つ力だ。子どもは守るべき存在で、なぜなら一人で生きる力はなくて、無垢な存在で……でもそれはあくまで概念としての子どもだ。だって『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』で描かれた子どもは、2階から車に向かって唾液を飛ばすという最悪の遊びをやる子どもで、たぶん近所にいればたいていの人は、どんな善良な人でも「クソガキ……」と思うような子どもで、やっぱり彼らは守られなければいけない、それができるのはもしかしたら冷たい政治のシステムだけで、子どもに向き合って助け出すのは個人ではやっぱり無理なのだから。映画なんて娯楽なので観客の飲み込みやすい理想化された「守るべき子ども」の味付けをすればいいしそれは腕のある作家には結構簡単なことなんだろうけど、ショーン・ベイカーは、クソガキと言われるような子どもを全然理想化せずに、きれいごとの演出で包まない。
無力で悲しい、理想化されていない子どもが現実を超えるために用いる想像力の跳躍、だからこそ、あのラストシーンに観客は心を動かされた。

マイキー・セイバーを見てみよう。本人曰く、彼はポルノ界のアカデミー賞を何度も逃した超人気ポルノ俳優。だがテキサスの地元に帰ってきた時はマジの無一文だ。18歳のめちゃくちゃ年下の女の子にイキって業界話をするけど「2000ドル貰えるぜ」「3000ドル稼いだぜ」みたいなお金の単位からすると全然稼いでいた感じがしない。アメリカのポルノ業界の構造がそうなのか、それともマイキーが自分の人気に対して話を盛っているのか。オーラルセックスについての話を聞く限り、後者の可能性も高そうだ。でもたぶんどちらもだろう。就職面接で不利になるのにマイキーは「俺は有名ポルノ俳優です」と言い続ける。だって彼にとってはそれは特別な自分のあかしだから。あるいは、彼にはそれしかないから。業界人としての入り口は、妻をポルノに出演させたこと。マイキーには、俺はできる男なので同じやり方でまた一旗揚げられそう、という万能感がある。でもマイキーは気づいていないがそれは自分の実力ではない、少なくとも現在のマイキーは自分から出てきたものやスキルなどではお金を生み出せない。つまりマイキーには何もない。大きな事故を起こしても自分では絶対に責任を取らない。これ、子どもでは???条件面でいえばほぼ子どもでは????

まあここまで言って冷静になってみるとマイキーに何ができるかどうかはあんまり関係なくて、マイキーはストロベリー(ほぼ子ども)の人生を使ってお金儲けしようとしている点でめちゃくちゃ大人だ。でも重要なのは、苦しみの中にいる当人にとっては自分が大人か子どもかはどうでもいいということ。この映画のラストシーンは、無力で悲しいおじさんが現実を超えるために用いる想像力の跳躍なのだけれど、それを『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』と同じ感じで受け取るのは難しい。そして私たちはマイキーの切実さを無視する。子どもを食い物にしようとするおじさんなんて無視するのは当たり前だから。子どもは守るべき。おじさんが子どもを食い物にしようとしてたら許してはならない、当たり前のことだ。でもその当たり前の中身は全然論理的ではない。全然論理的ではないということ、そして社会的な当たり前や合意の前にひとりひとりひとりの人間がいて、そしてひとりの人間がいてもなお、社会的な当たり前や合意を前提にして動くこと、たとえば『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』で子どもを守るために母親と引き離す行政みたいに。いったい、誰が正しいの?正しいひとなんていない。でも正しくあろうとひたむきになることはできる。そういうふうな世界の複雑さにひとりひとりが耐えられなくなっている中で(私も含めてね)、あくまで世界の複雑さを複雑なままで描くこと。そこがショーン・ベイカーの作家性なんだろうなあとあらためて気づいた。


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